たいた。ショパン、リスト、モオツアルト、メンデルスゾオン、ラベル、滅茶滅茶に思いつき次第、弾いてみた。霊感を天降《あまくだ》らせようと思っているのだ。この子は、なかなか大袈裟である。霊感を得た、と思った。すました顔をして応接室を出て、それから湯殿に行き靴下を脱いで足を洗った。不思議な行為である。けれども次女は、此の行為に依ってみずからを浄《きよ》くしているつもりなのである。変態のバプテスマである。これでもう、身も心も清浄になったと、次女は充分に満足しておもむろに自分の書斎に引き上げた。書斎の椅子に腰をおろし、アアメン、と呟いた。これは、いかにも突飛である。この次女に、信仰などある筈はない。ただ、自分のいまの緊張を言いあらわすのに、ちょっと手頃な言葉だと思って、臨時に拝借してみたものらしい。アアメン、なるほど心が落ちつく。次女はもったい振り、足の下の小さい瀬戸の火鉢に、「梅花」という香《こう》を一つ焚《く》べて、すうと深く呼吸して眼を細めた。古代の閨秀《けいしゅう》作家、紫式部の心境がわかるような気がした。春はあけぼの、という文章をちらと思い浮べていい気持であったが、それは清少納言の文章であった事に気附いて少し興覚めた。あわてて机の本立から引き出した本は、「ギリシャ神話」である。すなわち異教の神話である。ここに於いて次女のアアメンは、真赤なにせものであったという事は完全に説明される。この本は、彼女の空想の源泉であるという。空想力が枯渇すれば、この本をひらく。たちまち花、森、泉、恋、白鳥、王子、妖精《ようせい》が眼前に氾濫するのだそうであるが、あまりあてにならない。この次女の、する事、為《な》す事、どうも信用し難い。ショパン、霊感、足のバプテスマ、アアメン、「梅花」、紫式部、春はあけぼの、ギリシャ神話、なんの連関も無いではないか。支離滅裂である。そうして、ただもう気取っている。ギリシャ神話をぱらぱらめくって、全裸のアポロの挿絵《さしえ》を眺め、気味のわるい薄笑いをもらした。ぽんと本を投げ出して、それから机の引き出しをあけ、チョコレートの箱と、ドロップの缶を取りだし、実にどうにも気障《きざ》な手つきで、――つまり、人さし指と親指と二本だけ使い、あとの三本の指は、ぴんと上に反《そ》らせたままの、あの、くすぐったい手つきでチョコレートをつまみ、口に入れるより早く嚥下《えんか》し、間髪をいれずドロップを口中に投げ込み、ばりばり噛み砕いて次は又、チョコレート、瞬時にしてドロップ、飢餓の魔物の如くむさぼり食うのである。朝食の時、胃腑を軽快になさんがため、特にパンと牛乳だけですませて置いた事も、これでは、なんにもならない。この次女は、もともと、よほどの大食いなのである。上品ぶってパンと牛乳で軽くすませてはみたが、それでは足りない。とても、足りるものではない。すなわち、書斎に引き籠《こも》り、人目を避けてたちまち大食いの本性を発揮したというわけなのである。とかく、いつわりの多い子である。チョコレート二十、ドロップ十個を嚥下し、けろりとしてトラビヤタの鼻唄をはじめた。唄いながら、原稿用紙の塵《ちり》を吹き払い、Gペンにたっぷりインクを含ませて、だらだらと書きはじめた。頗《すこぶ》る態度が悪いのである。
 ――あきらめを知らぬ、本能的な女性は、つねに悲劇を起します。という初枝(長女の名)女史の暗示も、ここに於いて多少の混乱に逢着したようでございます。ラプンツェルは魔の森に生れ、蛙《かえる》の焼串や毒茸《どくきのこ》などを食べて成長し、老婆の盲目的な愛撫の中でわがまま一ぱいに育てられ、森の烏や鹿を相手に遊んで来た、謂《い》わば野育ちの子でありますから、その趣味に於いても、また感覚に於いても、やはり本能的な野蛮なものが在るだろうという事は首肯できます。また、その本能的な言動が、かえって王子を熱狂させる程の魅力になっていたのだというのも容易に推察できる事でございます。けれども、果してラプンツェルは、あきらめを知らぬ女性であろうか。本能的な、野蛮な女性であった事は首肯出来ますが、いまの此のいのちの瀬戸際に於けるラプンツェルは、すべてを諦めているように見えるではないか。死にます、とラプンツェルは言っているのです。死んだほうがよい、と言っているのです。すべてを諦めたひとの言葉ではないでしょうか。けれども初枝女史は、ラプンツェルをあきらめを知らぬ女性として指摘して居ります。軽率《けいそつ》にそれに反対したら、叱られます。叱られるのは、いやな事ゆえ、筆者も、とにかく初枝女史の断案に賛意を表することに致します。ラプンツェルは、たしかに、あきらめを知らぬ女性であります。死なせて下さい、等という言葉は、たいへんいじらしい謙虚な響きを持って居りますが、なおよく、考えてみると
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