自分の胸に描いて来た芭蕉の心像を十年も二十年も若くした。云々。」
露伴の文章がどうのこうのと、このごろ、やかましく言われているけれども、それは露伴の五重塔や一口剣《いっこうけん》などむかしの佳品を読まないひとの言うことではないのか。
王勝間《たまかつま》にも以下の文章あり。「今の世の人、神の御社は寂しく物さびたるを尊しと思ふは、古の神社の盛りなりし世の様をば知らずして、ただ今の世に大方古く尊き神社どもはいみじくも衰へて荒れたるを見なれて、古く尊き神社は本よりかくあるものと心得たるからのひがごとなり。」
けれども私は、老人に就《つ》いて感心したことがひとつある。黄昏《たそがれ》の銭湯の、流し場の隅《すみ》でひとりこそこそやっている老人があった。観ると、そまつな日本|剃刀《かみそり》で鬚《ひげ》を剃っているのだ。鏡もなしに、薄暗闇のなかで、落ちつき払ってやっているのだ。あのときだけは唸《うな》るほど感心した。何千回、何万回という経験が、この老人に鏡なしで手さぐりで顔の鬚をらくらくと剃ることを教えたのだ。こういう具合の経験の堆積《たいせき》には、私たち、逆立ちしたって負けである。そう思って、以後、気をつけていると、私の家主の六十有余の爺もまた、なんでもものを知っている。植木を植えかえる季節は梅雨時に限るとか、蟻《あり》を退治するのには、こうすればよいとか、なかなか博識である。私たちより四十も多く夏に逢い、四十回も多く花見をし、とにかく、四十回も其の余も多くの春と夏と秋と冬とを見て来たのだ。けれども、こと芸術に関してはそうはいかない。「点三年、棒十年」などというやや悲壮な修業の掟《おきて》は、むかしの職人の無智な英雄主義にすぎない。鉄は赤く熱しているうちに打つべきである。花は満開のうちに眺むべきである。私は晩成の芸術というものを否定している。
難解
「太初《はじめ》に言《ことば》あり。言は神と偕《とも》にあり。言は神なりき。この言は太初に神とともに在り。万《よろず》の物これに由《よ》りて成り、成りたる物に一つとして之《これ》によらで成りたるはなし。之に生命《いのち》あり。この生命は人の光なりき。光は暗黒《くらき》に照る。而《しか》して暗黒は之を悟らざりき。云々。」私はこの文章を、この想念を、難解だと思った。ほうぼうへ持って廻ってさわぎたてたのである。
けれども、あるときふっと角度をかえて考えてみたら、なんだ、これはまことに平凡なことを述べているにすぎないのである。それから私はこう考えた。文学に於いて、「難解」はあり得ない。「難解」は「自然」のなかにだけあるのだ。文学というものは、その難解な自然を、おのおの自己流の角度から、すぱっと斬っ(たふりをし)て、その斬り口のあざやかさを誇ることに潜んで在るのではないのか。
塵中《じんちゅう》の人
寒山詩は読んだが、お経《きょう》のようで面白くなかった。なかに一句あり。
悠悠たる塵中の人、
常に塵中の趣を楽む。
云々。
「悠悠たる」は嘘だと思うが、「塵中の人」は考えさせられた。
玉勝間にもこれあり。
「世々の物知り人、また今の世に学問する人なども、みな住みかは里遠く静かなる山林を住みよく好ましくするさまにのみいふなるを、われは、いかなるにか、さはおぼえず、ただ人繁く賑はしき処の好ましくて、さる世放れたる処などは、さびしくて、心もしをるるやうにぞおぼゆる。云々。」
健康とそれから金銭の条件さえ許せば、私も銀座のまんなかにアパアト住いをして、毎日、毎日、とりかえしのつかないことを言い、とりかえしのつかないことを行うべきでもあろうと、いま、白砂青松の地にいて、籐椅子《とういす》にねそべっているわが身を抓《つね》っている始末である。住み難き世を人一倍に痛感しまことに受難の子とも呼ぶにふさわしい、佐藤春夫、井伏|鱒二《ますじ》、中谷孝雄、いまさら出家|遁世《とんせい》もかなわず、なお都の塵中にもがき喘《あえ》いでいる姿を思うと、――いやこれは対岸の火事どころの話でない。
おのれの作品のよしあしをひとにたずねることに就いて
自分の作品のよしあしは自分が最もよく知っている。千に一つでもおのれによしと許した作品があったならば、さいわいこれに過ぎたるはないのである。おのおの、よくその胸に聞きたまえ。
書簡集
おや? あなたは、あなたの創作集よりも、書簡集のほうを気にして居られる。――作家は悄然《しょうぜん》とうなだれて答えた。ええ、わたくしは今まで、ずいぶんたくさんの愚劣な手紙を、ほうぼうへ撒《ま》きちらして来ましたから。(深い溜息《ためいき》をついて、)大作家にはなれますまい。
これは笑い話ではない。私は不思議でならないのだ。日本では偉い作家が死んで、そのあとで上梓《じょうし》する全集へ、必ず書簡集なるものが一冊か二冊、添えられてある。書簡のほうが、作品よりずっと多量な全集さえ、あったような気がするけれど、そんなのには又、特殊な事情があったのかも知れない。
作家の、書簡、手帳の破片、それから、作家御十歳の折の文章、自由画。私には、すべてくだらない。故作家と生前、特に親交あり、いま、その作家を追慕するのあまり、彼の戯《たわむ》れにものした絵集一巻、上梓して内輪《うちわ》の友人親戚間にわけてやるなど、これはまた自ら別である。あかの他人のかれこれ容喙《ようかい》すべき事がらでない。
私は一読者の立場として、たとえばチエホフの読者として、彼の書簡集から何ひとつ発見しなかった。私には、彼の作品「鴎《かもめ》」の中のトリゴーリンの独白を書簡集のあちこちの隅からかすかに聴取できただけのことであった。
読者あるいは、諸作家の書簡集を読み、そこに作家の不用意きわまる素顔を発見したつもりで得々としているかも知れないが、彼等がそこでいみじくも、掴《つか》まされたものはこの作家もまた一日に三度三度のめしを食べた、あの作家もまた房事を好んだ、等々の平俗な生活記録にすぎない。すでに判り切ったことである。それこそ、言うさえ野暮《やぼ》な話である。それにもかかわらず、読者は、一度掴んだ鬼の首を離そうともせず、ゲエテはどうも梅毒らしい、プルウストだって出版屋には三拝九拝だったじゃないか、孤蝶と一葉とはどれくらいの仲だったのかしら。そうして、作家が命をこめた作品集は、文学の初歩的なるものとしてこれを軽んじ、もっぱら日記や書簡集だけをあさり廻るのである。曰《いわ》く、将を射んと欲せば馬を射よ。文学論は更に聞かれず、行くところ行くところ、すべて人物|月旦《げったん》はなやかである。
作家たるもの、またこの現象を黙視し得ず、作品は二の次、もっぱらおのれの書簡集作成にいそがしく、十年来の親友に送る書簡にも、袴《はかま》をつけ扇子《せんす》を持って、一字一句、活字になったときの字づらの効果を考慮し、他人が覘《のぞ》いて読んでも判るよう文章にいちいち要《い》らざる註釈を書き加えて、そのわずらわしさ、ために作品らしき作品一つも書けず、いたずらに手紙上手の名のみ高い、そういうひとさえ出て来るわけではないか。
書簡集に用いるお金があったなら、作品集をいよいよ立派に装釘《そうてい》するがいい。発表されると予期しているような、また予期していないような、あやふやな書簡、及び日記。蛙《かえる》を掴まされたようで、気持ちがよくないのである。いっそどちらかにきめたほうが、まだしもよい。
かつて私は、書簡もなければ日記もない、詩十篇ぐらいに訳詩十篇ぐらいの、いい遺作集を愛読したことがある。富永太郎というひとのものであるが、あの中の詩二篇、訳詩一篇は、いまでも私の暗い胸のなかに灯をともす。唯一無二のもの。不朽のもの。書簡集の中には絶対にないもの。
兵法
文章の中の、ここの箇所は切り捨てたらよいものか、それとも、このままのほうがよいものか、途方にくれた場合には、必ずその箇所を切り捨てなければいけない。いわんや、その箇所に何か書き加えるなど、もってのほかというべきであろう。
In a word
久保田万太郎か小島政二郎か、誰かの文章の中でたしかに読んだことがあるような気がするのだけれども、あるいは、これは私の思いちがいかも知れない。芥川龍之介が、論戦中によく「つまり?」という問を連発して論敵をなやましたものだ、という懐古談なのだ。久保万か、小島氏か、一切忘れてしまったけれども、とにかく、ひどくのんびり語っていた。これには、わたくしたち、ほとほと閉口いたしましたもので、というような口調であった。いずくんぞ知らん、芥川はこの「つまり」を掴みたくて血まなこになって追いかけ追いかけ、はては、看護婦、子守娘にさえ易々《やすやす》とできる毒薬自殺をしてしまった。かつての私もまた、この「つまり」を追及するに急であった。ふんぎりが欲しかった。路草《みちくさ》を食う楽しさを知らなかった。循環小数の奇妙を知らなかった。動かざる、久遠《くおん》の真理を、いますぐ、この手で掴みたかった。
「つまりは、もっと勉強しなくちゃいかんということさ。」「お互いに。」徹宵、議論の揚句《あげく》の果《はて》は、ごろんと寝ころがって、そう言って二人うそぶく。それが結論である。それでいいのだとこのごろ思う。
私はたいへんな問題に足を踏みいれてしまったようである。はじめは、こんなことを言うつもりじゃなかった。
In a word という小題で、世人、シェストフを贋物《がんぶつ》の一言で言い切り、構光利一を駑馬《どば》の二字で片づけ、懐疑説の矛盾をわずか数語でもって指摘し去り、ジッドの小説は二流也と一刀のもとに屠《ほふ》り、日本浪曼派は苦労知らずと蹴って落ちつき、はなはだしきは読売新聞の壁評論氏の如く、一篇の物語(私の「猿ヶ島」)を一行の諷刺《ふうし》、格言に圧縮せむと努めるなど、さまざまの殺伐なるさまを述べようと思っていたのだが、秋空のせいか、ふっと気がかわって、われながら変なことになってしまった。これは、明かに失敗である。
病躯の文章とそのハンデキャップに就いて
確かに私は、いま、甘えている。家人は私を未だ病人あつかいにしているし、この戯文を読むひとたちもまた、私の病気を知っている筈《はず》である。病人ゆえに、私は苦笑でもって許されている。
君、からだを頑健にして置きたまえ。作家はその伝記の中で、どのような三面記事をも作ってはいけない。
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追記。文芸冊子「散文」十月号所載山岸外史の「デカダン論」は細心|鏤刻《るこく》の文章にして、よきものに触れたき者は、これを読め。
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「衰運」におくる言葉
ひややかにみづをたたへて
かくあればひとはしらじな
ひをふきしやまのあととも
右は、生田長江のうたである。「衰運」読者諸兄へのよき暗示ともなれば幸甚である。
君、あとひとつき寝れば、二十五歳、深く自愛し、そろそろと路なき路にすすむがよい。そうして、不抜の高き塔を打ちたて、その塔をして旅人にむかい百年のちまで、「ここに男ありて、――」と必ず必ず物語らせるがよい。私の今宵のこの言葉を、君、このまま素直に受けたまえ。
ダス・ゲマイネに就いて
いまより、まる二年ほどまえ、ケエベル先生の「シルレル論」を読み、否、読まされ、シルレルはその作品に於いて、人の性よりしてダス・ゲマイネ(卑俗)を駆逐し、ウール・シュタンド(本然の状態)に帰らせた。そこにこそ、まことの自由が生れた。そんな所論を見つけたわけだ。ケエベル先生は、かの、きよらなる顔をして、「私たち、なかなかにこのダス・ゲマイネという泥地から足を抜けないもので、――」と嘆じていた。私もまた、かるい溜息をもらした。「ダス・ゲマイネ」「ダス・ゲマイネ」この想念のかなしさが、私の頭の一隅にこびりついて離れなかった。
いま日本に於いて、多少
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