私の心は千里はなれた磯《いそ》にいて、浪にくるくる舞い狂っていたのである。私のはじめての本の出版。それで、すべてに、合点がついた。宿題。たくまずして、砂子屋書房主人、山崎剛平氏に、ばとんをお渡ししなければならなくなった。私の本がどれくらい、売れるであろうか。私の本の装釘《そうてい》は、うまく行くであろうか。潮どきと鴎《かもめ》と浪の関係。
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附記。これは、半ば以上、私の本の、広告のために書いた。私、昭和十一年よりは、稿料、全く無しか、さもなくば、小説一枚五円、その他のくさぐさの文章一枚三円ときめた。
今年正月号には、私の血一滴まじって居るとさえ思わせたる編輯者《へんしゅうしゃ》の手紙のため。あるいは、書きますと去年の正月にお約束して、以後、一年間、自らすすんでいよいよ強くお約束してしまい、ついには、もの狂いの状態にさえなったがため。私をつねにやわらかくなぐさめ顔の、而《しか》も文意あくまで潔白なる編輯部の手紙のため、その他、とにかく、いちどは書かなければならぬ事情ありて、断片の語、二十枚あまり書いた。稿料はすべて、私のほうから断って書いた。「人おのおの。おのれひとりの業務にのみ、努めること第一であるが、たまには隣人の、かなしくも不抜の自尊心を、そ知らぬふりして、あたためてやりたまえ。」
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底本:「太宰治全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年6月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
初出:(「はしがき」から「ふたたび書簡のこと」まで)
「日本浪曼派」
1935(昭和10)年8月〜12月
(「わが儘という事」から「余談」まで)
「東京日日新聞」
1935(昭和10)年12月14日、15日
(「Alles Oder Nichts」)
「葦」
1950(昭和25)年8月10日発行
(「葦の自戒」から「敵」まで)
「作品」
1936(昭和11)年1月1日発行
(「健康」から「最後のスタンドプレイ」まで)
「文芸通信」
1936(昭和11)年1月1日発行
(「冷酷ということについて」から「わがダンディスム」まで)
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