らだにも。」なる一句があった。前後はしかと覚えて居らぬが、あわれ、けだものすらだにも、云々というような歌であった。
二十代の心情としては、どうしても、「すらだにも。」といわなければならぬところである。ここまで努めて、すらだにも、と口に出したくなって来るではないか。実朝を知ること最も深かった真淵《まぶち》、国語をまもる意味にて、この句を、とらず。いまになりては、いずれも佳《よ》きことをしたと思うだけで、格別、真淵をうらまない。
慈眼
「慈眼。」というのは亡兄の遺作(へんな仏像)に亡兄みずから附したる名前であって、その青色の二尺くらいの高さの仏像は、いま私の部屋の隅に置いて在るが、亡兄、二十七歳、最後の作品である。二十八歳の夏に死んだのだから。
そういえば、私、いま、二十七歳。しかも亡兄のかたみの鼠色の縞《しま》の着物を着て寝て居る。 二三年まえ、罪なきものを殴《なぐ》り、蹴《け》ちらかして、馬の如く巷《ちまた》を走り狂い、いまもなお、ときたま、余燼《よじん》ばくはつして、とりかえしのつかぬことをしてしまうのである。どうにでもなれと、一日一ぱいふんぞりかえって寝て居ると、わが身に、慈眼の波ただよい、言葉もなく、にこやかに、所謂《いわゆる》えびす顔になって居る場合が多い。われながら、まるでたわいがないのだ。
この項、これだけのことで、読者、不要の理窟を附さぬがよい。
重大のこと
知ることは、最上のものにあらず。人智には限りありて、上は――氏より、下は――氏にいたるまで、すべて似たりよったりのものと知るべし。
重大のことは、ちからであろう。ミケランジェロは、そんなことをせずともよい豊かな身分であったのに、人手は一切借りず何もかもおのれひとりで、大理石塊を、山から町の仕事場までひきずり運び、そうして、からだをめちゃめちゃにしてしまった。
附言する。ミケランジェロは、人を嫌ったから、あんなに人に嫌われたのだそうである。
敵
私をしんに否定し得るものは、(私は十一月の海を眺めながら思う。)百姓である。十代まえからの水呑百姓、だけである。
丹羽文雄、川端康成、市村羽左衛門、そのほか。私には、かぜ一つひいてさえ気にかかる。
追記。本誌連載中、同郷の友たる今官一君の「海鴎の章。」を読み、その快文章、私の胸でさえ躍らされた。こ
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