けれども、あるときふっと角度をかえて考えてみたら、なんだ、これはまことに平凡なことを述べているにすぎないのである。それから私はこう考えた。文学に於いて、「難解」はあり得ない。「難解」は「自然」のなかにだけあるのだ。文学というものは、その難解な自然を、おのおの自己流の角度から、すぱっと斬っ(たふりをし)て、その斬り口のあざやかさを誇ることに潜んで在るのではないのか。

     塵中《じんちゅう》の人

 寒山詩は読んだが、お経《きょう》のようで面白くなかった。なかに一句あり。
  悠悠たる塵中の人、
  常に塵中の趣を楽む。
  云々。
「悠悠たる」は嘘だと思うが、「塵中の人」は考えさせられた。
 玉勝間にもこれあり。
「世々の物知り人、また今の世に学問する人なども、みな住みかは里遠く静かなる山林を住みよく好ましくするさまにのみいふなるを、われは、いかなるにか、さはおぼえず、ただ人繁く賑はしき処の好ましくて、さる世放れたる処などは、さびしくて、心もしをるるやうにぞおぼゆる。云々。」
 健康とそれから金銭の条件さえ許せば、私も銀座のまんなかにアパアト住いをして、毎日、毎日、とりかえしのつかないことを言い、とりかえしのつかないことを行うべきでもあろうと、いま、白砂青松の地にいて、籐椅子《とういす》にねそべっているわが身を抓《つね》っている始末である。住み難き世を人一倍に痛感しまことに受難の子とも呼ぶにふさわしい、佐藤春夫、井伏|鱒二《ますじ》、中谷孝雄、いまさら出家|遁世《とんせい》もかなわず、なお都の塵中にもがき喘《あえ》いでいる姿を思うと、――いやこれは対岸の火事どころの話でない。

     おのれの作品のよしあしをひとにたずねることに就いて

 自分の作品のよしあしは自分が最もよく知っている。千に一つでもおのれによしと許した作品があったならば、さいわいこれに過ぎたるはないのである。おのおの、よくその胸に聞きたまえ。

     書簡集

 おや? あなたは、あなたの創作集よりも、書簡集のほうを気にして居られる。――作家は悄然《しょうぜん》とうなだれて答えた。ええ、わたくしは今まで、ずいぶんたくさんの愚劣な手紙を、ほうぼうへ撒《ま》きちらして来ましたから。(深い溜息《ためいき》をついて、)大作家にはなれますまい。
 これは笑い話ではない。私は不思議でならないのだ。
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