ちこち覗《のぞ》き読みしているこのお隣りの娘について少しだけ書く。
 私がこの土地に移り住んだのは昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣りの庭の、三本の夾竹桃《きょうちくとう》にふらふら心をひかれた。欲しいと思った。私は家人に言いつけて、どれでもいいから一本、ゆずって下さるよう、お隣りへたのみに行かせた。家人は着物を着かえながら、お金は失礼ゆえ、そのうち私が東京へ出て袋物かなにかのお品を、と言ったが、私は、お金のほうがいいのだ、と言って、二円、家人に手渡した。
 家人がお隣りへ行って来ての話に、お隣りの御主人は名古屋のほうの私設鉄道の駅長で、月にいちど家へかえるだけである。そうして、あとは奥さまとことし十六になる娘さんとふたりきりで、夾竹桃のことは、かえって恐縮であって、どれでもお気に召したものを、とおっしゃった。感じのいい奥さまです、ということである。あくる日、すぐ私は、このまちの植木屋を捜しだし、それをつれて、おとなりへお伺いした。つやつやした小造りの顔の、四十歳くらいの婦人がでて来て挨拶した。少しふとって、愛想のよい口元をしていて、私にも、感じがよかった。三本のうち、まんなかの夾竹桃をゆずっていただくことにして、私は、お隣りの縁側に腰をかけ、話をした。たしかに次のようなことを言ったとおぼえている。
「くには、青森です。夾竹桃などめずらしいのです。私には、ま夏の花がいいようです。ねむ。百日紅《さるすべり》。葵《あおい》。日まわり。夾竹桃。蓮《はす》。それから、鬼百合。夏菊。どくだみ。みんな好きです。ただ、木槿《もくげ》だけは、きらいです。」
 私は自分が浮き浮きとたくさんの花の名をかぞえあげたことに腹を立てていた。不覚だ! それきり、ふっと一ことも口をきかなかった。帰りしなに、細君の背後にじっと坐っている小さな女の子へ、
「遊びにいらっしゃい。」と言ってやった。娘は、「はあ。」と答えてそのまましずかに私のうしろについて来て、私の部屋へはいって、坐った。たしかに、そんな工合いであったようである。私は、多少いい気持ちで夾竹桃などに心をひかれたのをくやしく思っていたので、その木の植えかた一さい家人にまかせ、八畳の居間でマツ子と話をした。私には、なんだか本の二三十ペエジ目あたりを読んでいるような、at home な、あたたかい気がして、私の姿勢をわすれて話をした。
 あくる日マツ子は、私のうちの郵便箱に、四つに畳んだ西洋紙を投げこんでいた。眠れず、私はその朝、家人よりも早いくらいに寝床から脱けだし、歯をみがきながら、新聞を取りに出て、その紙きれを見つけたのだ。紙きれには、こう書いていた。
「あなたは尊いお人だ。死んではいけません。誰もごぞんじないのです。私はなんでもいたします。いつでも死にます。」
 私は、朝ごはんのときに、家人へその紙きれを見せ、あれは、きっといい子だから、毎日あそびによこすよう、お隣りへおねがいして来い、と言いつけた。マツ子は、それから毎日、かかさず、私の家へ来た。
「マツ子は、いろが黒いから産婆さんにでもなればよい。」と或る日、私がほかのことで怒っていたときに、言ってやった。そんなに醜く黒くはないのだけれども、鼻もひくいし、美しい面貌ではない。ただ、唇の両端が怜悧《れいり》そうに上へめくれあがって、眼の黒く大きいのが取り柄である。姿態について、家人に問うと、「十六では、あれで大きいほうではないでしょうか。」と答えた。また、身なりについては、「いつでも、小ざっぱりしているようじゃございませんか。奥さまが、しっかりしていますものですから。」と答えた。
 私は、マツ子と話をして居れば、たまたま、時を忘れる。
「私、十八になれば、京都へいって、お茶屋につとめるの。」
「そうか。もうきまってあるのか。」
「お母さまのお知り合いで大きいお茶屋を、しているおかたがあるんですって。」お茶屋というのは、どうも、料亭のようであった。父が駅長をしていても、そうしなければ、ならないのかなあ、そうかなあ、と断じて不服に思いながら、
「それでは女中じゃないか。」
「ええ。でも、――京都では、ゆいしょのあるご立派なお茶屋なんですって。」
「あそびに行ってやるか。」
「ぜひとも。」ちからをいれていた。それから、遠いところを見ているような眼ざしで、ぼんやり呟《つぶや》いた。「おひとりきりでおいでなさいね。」
「そのほうがいいのか。」
「うん。」袖《そで》のはしをつまぐるのをやめて、うなずいた。「大勢さんだと、私の貯金が割合と早くなくなってしまうから。」マツ子は私に、あそばせるつもりであった。
「貯金がそんなにあるのか。」
「お母さまが、私に、保険をつけて下さっているの。私が三十二になれば、お金が何百円だか、たくさん取れるのよ。」
 
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