ひけました。
 校長室に案内されて、私は、ただ、きょろきょろしていました。案内して来た生徒たちは、むかし此の学校に芥川龍之介も講演しに来て、その時、講堂の彫刻を褒《ほ》めて行きました、と私に教えました。私も、何か褒めなければいけないかと思って、あたりを見廻したのですが、褒めたいものもありませんでした。
 やがて出て来た主任の先生と挨拶して、それから会場へ出かけました。会場には生徒の他に一般市民も集っていました。隅に、女の人も、五、六人かたまって腰かけていたようでした。私が、はいって行くと、拍手が起りました。私は、少し笑いました。
「別に、用意もして参りませんでした。宿屋で寝ながら考えてみましたが、まとまりませんでした。こんな事になるかも知れぬと思って、私の創作集を二冊ふところに容れて、東京から持って参りました。やはり、之を、読むより他は、ありません。読んでいるうちに何か思いつくでしょうから、思いついたら、またその時には、申し上げます。」
 私は、「思い出」という初期の作品を、一章だけ読みました。それから、私小説に就いて少し言いました。告白の限度という事にも言及しました。ふい、ふいと思いついた事を、てれくさい虫を押し殺し押し殺し、どもりながら言いました。自己暴露の底の愛情に就いても言ってみました。しばらく言っているうちに、だんだん言いたくなくなりました。話が、とぎれてしまいました。私は四、五はい水を飲んで、さらにもう一冊の創作集を取り上げ、「走れメロス」という近作を大声で読んでみました。するとまた言いたい事も出て来たので、水を飲み、こんどは友情に就いて話しました。
「青春は、友情の葛藤《かっとう》であります。純粋性を友情に於いて実証しようと努め、互いに痛み、ついには半狂乱の純粋ごっこに落ちいる事もあります。」と言いました。それから、素朴の信頼という事に就いて言いました。シルレルの詩を一つ教えました。理想を捨てるな、と言いました。精一ぱいのところでした。私の講演は、それで終りました。一時間半かかりました。つづいて座談会の筈でありましたが、委員は、お疲れのようですから、少し休憩なさい、と私にすすめてくれましたが、私は、
「いいえ、私のほうは大丈夫です。あなた達のほうがお疲れだったでしょう。」と言いましたら、場内に笑声が湧《わ》きました。くたくたに疲れてから、それから私はたいへんねばる事が出来ます。君と、ご同様です。
 十分間、皆その場に坐ったままで休憩しました。それから、私は生徒たちのまん中に席を移して、質問を待ちました。
「さっきの、幼年時代をお書きになる時、子供の心になり切る事も、むずかしいでしょうし、やはり作者としての大人の心も案配《あんばい》されていると思うのですが。」もっともな質問であります。
「いや、その事に就いては、僕は安心しています。なぜなら、僕は、いまでも子供ですから。」みんな笑いました。私は、笑わせるつもりで言ったのではないのでした。私の嘆きを真面目に答えたつもりなのでした。
 質問は、あまりありませんでした。仕方が無いから、私は独白の調子でいろいろ言いました。ありがとう、すみません、等の挨拶の言葉を、なぜ人は言わなければならないか。それを感じた時、人は、必ずそれを言うべきである。言わなければわからぬという興覚めの事実。卑屈は、恥に非ず。被害妄想と一般に言われている心の状態は、必ずしも精神病でない。自己制御、謙譲も美しいが、のほほん顔の王さまも美しい。どちらが神に近いか、それは私にも、わからない。いろいろ思いつくままに、言いました。罪の意識という事に就いても言いました。やがて委員が立って、「それでは、之《これ》で座談会を終了いたします。」と言ったら、なあんだというような力ない安堵《あんど》に似た笑い声が聴衆の間にひろがりました。
 これで、私の用事は、すんだのです。いや、それから生徒の有志たちと、まちのイタリヤ軒という洋食屋で一緒に晩ごはんをいただいて、それから、はじめて私は自由になれるわけなのです。会場からまた拍手に送られて退出し、薄暗い校長室へ行き、主任の先生と暫《しばら》く話をして、紅白の水引で綺麗《きれい》に結ばれた紙包をいただき、校門を出ました。門の傍では、五、六人の生徒たちがぼんやり佇《たたず》んでいました。
「海を見に行こう。」と私のほうから言葉を掛けて、どんどん海岸のほうへ歩いて行きました。生徒たちは、黙ってついて来ました。
 日本海。君は、日本海を見た事がありますか。黒い水。固い浪。佐渡が、臥牛《がぎゅう》のようにゆったり水平線に横わって居ります。空も低い。風の無い静かな夕暮でありましたが、空には、きれぎれの真黒い雲が泳いでいて、陰鬱でありました。荒海や佐渡に、と口ずさんだ芭蕉の傷心もわかるよう
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング