は、からだは割合丈夫でしたが、甲府で罹災する少し前から結膜炎を患《わずら》い、空襲当時はまったく眼が見えなくなって、私はそれを背負って焔《ほのお》の雨の下を逃げまわり、焼け残った病院を捜して手当を受け、三週間ほど甲府でまごまごして、やっとこの子の眼があいたので、私たちもこの子を連れて甲府を出発する事が出来たというわけなのでした。それでも、やはり夕方になると、この子の眼がふさがってしまって、そうして朝になっても眼がひらかず、私は医者からもらって来た硼酸水《ほうさんすい》でその眼を洗ってやって、それから眼薬をさして、それからしばらく経たなければ眼があかないという有様でした。その朝、上野駅で汽車に乗る時にも、この子の眼がなかなか開かなかったので、私が指で無理にあけたら、血がたらたら出ました。
つまり私たちの一行は、汚いシャツに色のさめた紺《こん》の木綿《もめん》のズボン、それにゲエトルをだらしなく巻きつけ、地下足袋《じかたび》、蓬髪《ほうはつ》無帽という姿の父親と、それから、髪は乱れて顔のあちこちに煤《すす》がついて、粗末極まるモンペをはいて胸をはだけている母親と、それから眼病の女の子と、
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