は、からだは割合丈夫でしたが、甲府で罹災する少し前から結膜炎を患《わずら》い、空襲当時はまったく眼が見えなくなって、私はそれを背負って焔《ほのお》の雨の下を逃げまわり、焼け残った病院を捜して手当を受け、三週間ほど甲府でまごまごして、やっとこの子の眼があいたので、私たちもこの子を連れて甲府を出発する事が出来たというわけなのでした。それでも、やはり夕方になると、この子の眼がふさがってしまって、そうして朝になっても眼がひらかず、私は医者からもらって来た硼酸水《ほうさんすい》でその眼を洗ってやって、それから眼薬をさして、それからしばらく経たなければ眼があかないという有様でした。その朝、上野駅で汽車に乗る時にも、この子の眼がなかなか開かなかったので、私が指で無理にあけたら、血がたらたら出ました。
つまり私たちの一行は、汚いシャツに色のさめた紺《こん》の木綿《もめん》のズボン、それにゲエトルをだらしなく巻きつけ、地下足袋《じかたび》、蓬髪《ほうはつ》無帽という姿の父親と、それから、髪は乱れて顔のあちこちに煤《すす》がついて、粗末極まるモンペをはいて胸をはだけている母親と、それから眼病の女の子と、それから痩《や》せこけて泣き叫ぶ男の子という、まさしく乞食の家族に違いなかったわけです。
下の男の子が、いつまでも、ひいひい泣きつづけ、その口に妻が乳房を押しつけても、ちっとも乳が出ないのを知っているので顔をそむけ、のけぞっていよいよ烈《はげ》しく泣きわめきます。近くに立っていたやはり子持ちの女のひとが見かねたらしく、
「お乳が出ないのですか?」
と妻に話掛けて来ました。
「ちょっと、あたしに抱かせて下さい。あたしはまた、乳がありあまって。」
妻は泣き叫ぶ子を、そのおかみさんに手渡しました。そのおかみさんの乳房からは乳がよく出ると見えて、子供はすぐに泣きやみました。
「まあ、おとなしいお子さんですね。吸いかたがお上品で。」
「いいえ、弱いのですよ。」
と妻が言いますと、そのおかみさんも、淋《さび》しそうな顔をして、少し笑い、
「うちの子供などは、そりゃもう吸い方が乱暴で、ぐいぐいと、痛いようなんですけれども、この坊ちゃんは、まあ、遠慮しているのかしら。」
弱い子は、母親でないひとの乳房をふくんで眠りました。
汽車が郡山《こおりやま》駅に着きました。駅は、たったいま爆撃せられたらしく、火薬の匂《にお》いみたいなものさえ感ぜられたくらいで、倒壊した駅の建物から黄色い砂ほこりが濛々《もうもう》と舞い立っていました。
ちょうど、東北地方がさかんに空襲を受けていた頃で、仙台は既に大半焼かれ、また私たちが上野駅のコンクリートの上にごろ寝をしていた夜には、青森市に対して焼夷弾《しょういだん》攻撃が行われたようで、汽車が北方に進行するにつれて、そこもやられた、ここもやられたという噂《うわさ》が耳にはいり、殊《こと》に青森地方は、ひどい被害のようで、青森県の交通全部がとまっているなどという誇大なことを真面目《まじめ》くさって言うひともあり、いつになったら津軽の果の故郷へたどり着く事が出来るやら、まったく暗澹《あんたん》たる気持でした。
福島を過ぎた頃から、客車は少しすいて来て、私たちも、やっと座席に腰かけられるようになりました。ほっと一息ついたら、こんどは、食料の不安が持ちあがりました。おにぎりは三日分くらい用意して来たのですが、ひどい暑気のために、ごはん粒が納豆《なっとう》のように糸をひいて、口に入れて噛《か》んでもにちゃにちゃして、とても嚥《の》み込む事が出来ない有様になって来ました。下の男の子には、粉ミルクをといてやっていたのですが、ミルクをとくにはお湯でないと具合がわるいので、それはどこか駅に途中下車した時、駅長にでもわけを話してお湯をもらって乳をこしらえるという事にして、汽車の中では、やわらかい蒸しパンを少しずつ与えるようにしていたのです。ところがその蒸しパンも、その外皮が既にぬらぬらして来て、みんな捨てなければならなくなっていました。あと、食べるものといっては、炒《い》った豆があるだけでした。少し持っているお米は、これはいずれどこかで途中下車になった時、宿屋でごはんとかえてもらうのに役立つかも知れませんが、さしあたって、きょうこれからの食べるものに窮してしまいました。
父と母は、炒り豆をかじり水を飲んでも、一日や二日は我慢できるでしょうが、五つの娘と二つの息子は、めもあてられぬ有様になるにきまっています。下の男の子は先刻のもらい乳のおかげで、うとうと眠っていますが、上の女の子は、もはや炒り豆にもあきて、よそのひとがお弁当を食べているさまをじっと睨《にら》んだりして、そろそろ浅間《あさま》しくなりかけているのです。
ああ、人間は、もの
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