。単なる塵芥かね。」
「間抜けだね、あなたは。見たらわかりさうなものだ。あれは、鯛の大群ぢやないか。」
「へえ? 微々たるものだね。あれでも二、三百匹はゐるんだらうね。」
「馬鹿だな。」と亀はせせら笑ひ、「本気で云つてゐるのか?」
「それぢやあ、二、三千か。」
「しつかりしてくれ。まづ、ざつと五、六百万。」
「五、六百万? おどかしちやいけない。」
亀はにやにや笑つて、
「あれは、鯛ぢやないんだ。海の火事だ。ひどい煙だ。あれだけの煙だと、さうさね、日本の国を二十ほど寄せ集めたくらゐの広大の場所が燃えてゐる。」
「嘘をつけ。海の中で火が燃えるもんか。」
「浅慮、浅慮。水の中だつて酸素があるんですからね。火の燃えないわけはない。」
「ごまかすな。それは無智な詭弁だ。冗談はさて置いて、いつたいあの、ゴミのやうなものは何だ。やつぱり、鯛かね? まさか、火事ぢやあるまい。」
「いや、火事だ。いつたい、あなた、陸の世界の無数の河川が昼夜をわかたず、海にそそぎ込んでも、それでも海の水が増しもせず減りもせず、いつも同じ量をちやんと保つて居られるのは、どういふわけか、考へてみた事がありますか。海のはうだつて困りますよ。あんなにじやんじやん水を注ぎ込まれちや、処置に窮しますよ。それでまあ時々、あんな工合ひにして不用な水を焼き捨てるのですな。やあ、燃える、燃える、大火事だ。」
「なに、ちつとも煙が広がりやしない。いつたい、あれは、何さ。さつきから、少しも動かないところを見ると、さかなの大群でもなささうだ。意地わるな冗談なんか云はないで、教へておくれ。」
「それぢや教へてあげませう。あれはね、月の影法師です。」
「また、かつぐんぢやないか?」
「いいえ、海の底には、陸の影法師は何も写りませんが、天体の影法師は、やはり真上から落ちて来ますから写るのです。月の影法師だけでなく、星辰の影法師も皆、写ります。だから、竜宮では、その影法師をたよりに暦を作り、四季を定めます。あの月の影法師は、まんまるより少し欠けてゐますから、けふは十三夜かな?」
真面目な口調でさういふので、浦島も、或いはさうかも知れぬとも思つたが、しかし、何だかへんだとも思つた。でもまた、見渡す限り、ただ薄みどり色の茫洋乎たる大空洞の片隅に、幽かな黒一点をとどめてゐるものが、たとひそれは嘘にしても月の影法師だと云はれて見ると、鯛の大群や火事だと思つて眺めるよりは、風流人の浦島にとつて、はるかに趣きがあり、郷愁をそそるに足るものがあつた。
そのうちに、あたりは異様に暗くなり、ごうといふ凄じい音と共に烈風の如きものが押し寄せて来て、浦島はもう少しで亀の背中からころげ落ちるところであつた。
「ちよつとまた眼をつぶつて。」と亀は厳粛な口調で言ひ、「ここはちやうど、竜宮の入口になつてゐるのです。人間が海の底を探険しても、たいていここが海底のどんづまりだと見極めて引上げて行くのです。ここを越えて行くのは、人間では、あなたが最初で、また最後かも知れません。」
くるりと亀はひつくりかへつたやうに、浦島には思はれた。ひつくりかへつたまま、つまり、腹を上にしたまま泳いで、さうして浦島は亀の甲羅にくつついて、宙返りを半分しかけたやうな形で、けれどもこぼれ落ちる事もなく、さかさにすつと亀と共に上の方へ進行するやうな、まことに妙な錯覚を感じたのである。
「眼をあいてごらん。」と亀に言はれた時には、しかし、もうそんな、さかさの感じは無く、当り前に亀の甲羅の上に坐つて、さうして、亀は下へ下へと泳いでゐる。
あたりは、あけぼのの如き薄明で、脚下にぼんやり白いものが見える。どうも、何だか、山のやうだ。塔が連立してゐるやうにも見えるが、塔にしては洪大すぎる。
「あれは何だ。山か。」
「さうです。」
「竜宮の山か。」興奮のため声が嗄れてゐた。
「さうです。」亀は、せつせと泳ぐ。
「まつ白ぢやないか。雪が降つてゐるのかしら。」
「どうも、高級な宿命を持つてゐる人は、考へる事も違ひますね。立派なものだ。海の底にも雪が降ると思つてゐるんだからね。」
「しかし、海の底にも火事があるさうだし、」と浦島は、さつきの仕返しをするつもりで、「雪だつて降るだらうさ。何せ、酸素があるんだから。」
「雪と酸素ぢや縁が遠いや。縁があつても、まづ、風と桶屋くらゐの関係ぢやないか。ばかばかしい。そんな事で私をおさへようたつて駄目さ。どうも、お上品なお方たちは、洒落が下手だ。雪はよいよい帰りはこはいつてのはどんなもんだい。あんまり、うまくもねえか。それでも酸素よりはいいだらう。さんそネツと来るか。はくそみたいだ。酸素はどうも、助からねえ。」やはり、口では亀にかなはない。
浦島は苦笑しながら、
「ところで、あの山は、」と云ひかけると、亀はまたあざ笑ひ、
「ところで、とは大きく出たぢやないか。ところであの山は、雪が降つてゐるのではないのです。あれは真珠の山です。」
「真珠?」と浦島は驚き、「いや、嘘だらう。たとひ真珠を十万粒二十万粒積み重ねたつて、あれくらゐの高い山にはなるまい。」
「十万粒、二十万粒とは、ケチな勘定の仕方だ。竜宮では真珠を一粒二粒なんて、そんなこまかい算へ方はしませんよ。一山《ひとやま》、二山《ふたやま》、とやるね。一山は約三百億粒だとかいふ話だが、誰もそれをいちいち算へた事も無い。それを約百万|山《やま》くらゐ積み重ねると、まづざつとあれくらゐの峰が出来る。真珠の捨場には困つてゐるんだ。もとをただせば、さかなの糞だからね。」
とかくして竜宮の正門に着く。案外に小さい。真珠の山の裾に蛍光を発してちよこんと立つてゐる。浦島は亀の甲羅から降りて、亀に案内をせられ、小腰をかがめてその正門をくぐる。あたりは薄明である。さうして森閑としてゐる。
「静かだね。おそろしいくらゐだ。地獄ぢやあるまいね。」
「しつかりしてくれ、若旦那。」と亀は鰭でもつて浦島の背中を叩き、「王宮といふものは皆このやうに静かなものだよ。丹後の浜の大漁踊りみたいな馬鹿騒ぎを年中やつてゐるのが竜宮だなんて陳腐な空想をしてゐたんぢやねえのか。あはれなものだ。簡素幽邃といふのが、あなたたちの風流の極致だらうぢやないか。地獄とは、あさましい。馴れてくると、この薄暗いのが、何とも言へずやはらかく心を休めてくれる。足許に気をつけて下さいよ。滑つてころんだりしては醜態だ。あれ、あなたはまだ草履をはいてゐるね。脱ぎなさいよ、失礼な。」
浦島は赤面して草履を脱いだ。はだしで歩くと、足の裏がいやにぬらぬらする。
「何だこの道は。気持が悪い。」
「道ぢやない。ここは廊下ですよ。あなたは、もう竜宮城へはひつてゐるのです。」
「さうかね。」と驚いてあたりを見廻したが、壁も柱も何も無い。薄闇が、ただ漾々と身辺に動いてゐる。
「竜宮には雨も降らなければ、雪も降りません。」と亀はへんに慈愛深げな口調で教へる。「だから、陸上の家のやうにあんな窮屈な屋根や壁を作る必要は無いのです。」
「でも、門には屋根があつたぢやないか。」
「あれは、目じるしです。門だけではなく、乙姫のお部屋にも、屋根や壁はあります。しかし、それもまた乙姫の尊厳を維持するために作られたもので、雨露を防ぐためのものではありません。」
「そんなものかね。」と浦島はなほもけげんな顔つきで、「その乙姫の部屋といふのは、どこにあるの? 見渡したところ冥途もかくや、蕭寂たる幽境、一木一草も見当らんぢやないか。」
「どうも田舎者には困るね。でつかい建物《たてもの》や、ごてごてした装飾には口をあけておつたまげても、こんな幽邃の美には一向に感心しない。浦島さん、あなたの上品《じやうぼん》もあてにならんね。もつとも丹後の荒磯の風流人ぢや無理もないがね。伝統の教養とやらも、聞いて冷汗が出るよ。正統の風流人とはよくも言つた。かうして実地に臨んでみると、田舎者まる出しなんだから恐れいる。人真似こまねの風流ごつこは、まあ、これからは、やめるんだね。」
亀の毒舌は竜宮に着いたら、何だかまた一段と凄くなつて来た。
浦島は心細さ限り無く、
「だつて、何も見えやしないんだもの。」とほとんど泣き声で言つた。
「だから、足許に気をつけなさいつて、云つてるぢやありませんか。この廊下は、ただの廊下ぢやないんですよ。魚の掛橋ですよ。よく気をつけてごらんなさい。幾億といふ魚がひしとかたまつて、廊下の床《ゆか》みたいな工合ひになつてゐるのですよ。」
浦島はぎよつとして爪先き立つた。だうりで、さつきから足の裏がぬらぬらすると思つてゐた。見ると、なるほど、大小無数の魚どもがすきまもなく背中を並べて、身動きもせず凝つとしてゐる。
「これは、ひどい。」と浦島は、にはかにおつかなびつくりの歩調になつて、「悪い趣味だ。これがすなはち簡素幽邃の美かね。さかなの背中を踏んづけて歩くなんて、野蛮きはまる事ぢやないか。だいいちこのさかなたちに気の毒だ。こんな奇妙な風流は、私のやうな田舎者にはわかりませんねえ。」とさつき田舎者と言はれた鬱憤をここに於いてはらして、ちよつと溜飲がさがつた。
「いいえ、」とその時、足許で細い声がして、「私たちはここに毎日集つて、乙姫さまの琴の音《ね》に聞き惚れてゐるのです。魚の掛橋は風流のために作つてゐるのではありません。かまはず、どうかお通り下さい。」
「さうですか。」と浦島はひそかに苦笑して、「私はまた、これも竜宮の装飾の一つかと思つて。」
「それだけぢやあるまい。」亀はすかさず口をはさんで、「ひよつとしたら、この掛橋も浦島の若旦那を歓迎のために、乙姫さまが特にさかなたちに命じて、」
「あ、これ、」と浦島は狼狽し、赤面し、「まさか、それほど私は自惚れてはゐません。でも、ね、お前はこれを廊下の床《ゆか》のかはりだなんていい加減を言ふものだから、私も、つい、その、さかなたちが踏まれて痛いかと思つてね。」
「さかなの世界には、床《ゆか》なんてものは必要がありません。これがまあ、陸上の家にたとへたならば、廊下の床《ゆか》にでも当るかと思つて私はあんな説明をしてあげたので、決していい加減を言つたんぢやない。なに、さかなたちは痛いなんて思ふもんですか。海の底では、あなたのからだだつて紙一枚の重さくらゐしか無いのですよ。何だか、ご自分のからだが、ふはふは浮くやうな気がするでせう?」
さう言はれてみると、ふはふはするやうな感じがしないでもない。浦島は、重ね重ね、亀から無用の嘲弄を受けてゐるやうな気がして、いまいましくてならぬ。
「私はもう何も信じる気がしなくなつた。これだから私は、冒険といふものはいやなんだ。だまされたつて、それを看破する法が無いんだからね。ただもう、道案内者の言ふ事に従つてゐなければいけない。これはこんなものだと言はれたら、それつきりなんだからね。実に、冒険は人を欺く。琴の音《ね》も何も、ちつとも聞えやしないぢやないか。」とつひに八つ当りの論法に変じた。
亀は落ちついて、
「あなたはどうも陸上の平面の生活ばかりしてゐるから、目標は東西南北のいづれかにあるとばかり思つていらつしやる。しかし、海にはもう二元の方向がある。すなはち、上と下です。あなたはさつきから、乙姫の居所を前方にばかり求めていらつしやる。ここにあなたの重大なる誤謬が存在してゐたわけだ。なぜ、あなたは頭上を見ないのです。また、脚下を見ないのです。海の世界は浮いて漂つてゐるものです。さつきの正門も、また、あの真珠の山だつて、みんな少し浮いて動いてゐるのです。あなた自身がまた上下左右にゆられてゐるので、他の物の動いてゐるのが、わからないだけなのです。あなたは、さつきからずいぶん前方にお進みになつたやうに思つていらつしやるかも知れないけれど、まあ、同じ位置ですね。かへつて後退してゐるかも知れない。いまは潮の関係で、ずんずんうしろに流されてゐます。さうして、さつきから見ると、百尋くらゐみんな一緒に上方に浮きました。まあ、とにかくこの魚の掛橋をもう少し渡つてみませう。ほうら、魚の背中もだんだん
前へ
次へ
全15ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング