私は決して慾張り女ではないんです。あなたのためなら、どんな事でも忍んで見せます。ただ、時たま、あなたから優しい言葉の一つも掛けてもらへたら、私はそれで満足なのですよ。」
「つまらない事を言ふ。そらぞらしい。もういい加減あきらめてゐるかと思つたら、まだ、そんなきまりきつた泣き言を並べて、局面転換を計らうとしてゐる。だめですよ。お前の言ふ事なんざ、みんなごまかしだ。その時々の安易な気分本位だ。おれをこんな無口な男にさせたのは、お前です。夕食の時の世間話なんて、たいていは近所の人の品評ぢやないか。悪口ぢやないか。それも、れいの安易な気分本位で、やたらと人の陰口をきく。おれはいままで、お前が人をほめたのを聞いた事がない。おれだつて、弱い心を持つてゐる。お前にまきこまれて、つい人の品評をしたくなる。おれには、それがこはいのだ。だから、もう誰とも口をきくまいと思つた。お前たちには、ひとの悪いところばかり眼について、自分自身のおそろしさにまるで気がついてゐないのだからな。おれは、ひとがこはい。」
「わかりました。あなたは、私にあきたのでせう。こんな婆が、鼻について来たのでせう。私には、わかつてゐますよ。さつきのお客さんは、どうしました。どこに隠れてゐるのです。たしかに若い女の声でしたわね。あんな若いのが出来たら、私のやうな婆さんと話をするのがいやになるのも、もつともです。なんだい、無慾だの何だのと悟り顔なんかしてゐても、相手が若い女だと、すぐもうわくわくして、声まで変つて、ぺちやくちやとお喋りをはじめるのだからいやになります。」
「それなら、それでよい。」
「よかありませんよ。あのお客さんは、どこにゐるのです。私だつて、挨拶を申さなければ、お客さんに失礼ですよ。かう見えても、私はこの家の主婦ですからね、挨拶をさせて下さいよ。あんまり私を蹈みつけにしては、だめです。」
「これだ。」とお爺さんは、机上で遊んでゐる雀のはうを顎でしやくつて見せる。
「え? 冗談ぢやない。雀がものを言ひますか。」
「言ふ。しかも、なかなか気のきいた事を言ふ。」
「どこまでも、そんなに意地悪く私をからかふのですね。ぢやあ、よござんす。」矢庭に腕をのばして、机上の小雀をむずと掴み、「そんな気のきいた事を言はせないやうに、舌をむしり取つてしまひませう。あなたは、ふだんからどうもこの雀を可愛がりすぎます。私には、それがいやらしくて仕様が無かつたんですよ。ちやうどいい案配だ。あなたが、あの若い女のお客さんを逃がしてしまつたのなら、身代りにこの雀の舌を抜きます。いい気味だ。」掌中の雀の嘴をこじあけて、小さい菜の花びらほどの舌をきゆつとむしり取つた。
雀は、はたはたと空高く飛び去る。
お爺さんは、無言で雀の行方を眺めてゐる。
さうして、その翌日から、お爺さんの大竹藪探索がはじまるわけである。
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シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
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毎日毎日、雪が降り続ける。それでもお爺さんは何かに憑かれたみたいに、深い大竹藪の中を捜しまはる。藪の中には、雀は千も万もゐる。その中から、舌を抜かれた小雀を捜し出すのは、至難の事のやうに思はれるが、しかし、お爺さんは異様な熱心さを以て、毎日毎日探索する。
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シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
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お爺さんにとつて、こんな、がむしやらな情熱を以て行動するのは、その生涯に於いて、いちども無かつたやうに見受けられた。お爺さんの胸中に眠らされてゐた何物かが、この時はじめて頭をもたげたやうにも見えるが、しかし、それは何であるか、筆者(太宰)にもわからない。自分の家にゐながら、他人の家にゐるやうな浮かない気分になつてゐるひとが、ふつと自分の一ばん気楽な性格に遭ひ、之を追ひ求める、恋、と言つてしまへば、それつきりであるが、しかし、一般にあつさり言はれてゐる心、恋、といふ言葉に依つてあらはされる心理よりは、このお爺さんの気持は、はるかに侘しいものであるかも知れない。お爺さんは夢中で探した。生れてはじめての執拗な積極性である。
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シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
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まさか、これを口に出して歌ひながら捜し歩いてゐたわけではない。しかし、風が自分の耳元にそのやうにひそひそ囁き、さうして、いつのまにやら自分の胸中に於いても、その変てこな歌ともお念仏ともつかぬ文句が一歩一歩竹藪の下の雪を蹈みわけて行くのと同時に湧いて出て、耳元の風の囁きと合致する、といふやうな工合ひなのである。
或る夜、この仙台地方でも珍らしいほどの大雪があり、次の日はからりと晴れて、まぶしいくらゐの銀世界が現出し、お爺さんは、この朝早く、藁靴をはいて、相も変らず竹藪をさまよひ歩き、
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オヤドハ ドコダ
シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
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竹に積つた大きい雪のかたまりが、突然、どさりとお爺さんの頭上に落下し、打ちどころが悪かつたのかお爺さんは失神して雪の上に倒れる。夢幻の境のうちに、さまざまの声の囁きが聞えて来る。
「可愛さうに、たうとう死んでしまつたぢやないの。」
「なに、死にやしない。気が遠くなつただけだよ。」
「でも、かうしていつまでも雪の上に倒れてゐると、こごえて死んでしまふわよ。」
「それはさうだ。どうにかしなくちやいけない。困つた事になつた。こんな事にならないうちに、あの子が早く出て行つてやればよかつたのに。いつたい、あの子は、どうしたのだ。」
「お照さん?」
「さう、誰かにいたづらされて口に怪我をしたやうだが、あれから、さつぱりこのへんに姿を見せんぢやないか。」
「寝てゐるのよ。舌を抜かれてしまつたので、なんにも言へず、ただ、ぽろぽろ涙を流して泣いてゐるわよ。」
「さうか、舌を抜かれてしまつたのか。ひどい悪戯をするやつもあつたものだなあ。」
「ええ、それはね、このひとのおかみさんよ。悪いおかみさんではないんだけれど、あの日は虫のゐどころがへんだつたのでせう、いきなり、お照さんの舌をひきむしつてしまつたの。」
「お前、見てたのかい?」
「ええ、おそろしかつたわ。人間つて、あんな工合ひに出し抜けにむごい事をするものなのね。」
「やきもちだらう。おれもこのひとの家の事はよく知つてゐるけれど、どうもこのひとは、おかみさんを馬鹿にしすぎてゐたよ。おかみさんを可愛がりすぎるのも見ちやをられないものだが、あんなに無愛想なのもよろしくない。それをまたお照さんはいいことにして、いやにこの旦那といちやついてゐたからね。まあ、みんな悪い。ほつて置け。」
「あら、あなたこそ、やきもちを焼いてゐるんぢやない? あなたは、お照さんを好きだつたのでせう? 隠したつてだめよ。この大竹藪で一ばんの美声家はお照さんだつて、いつか溜息をついて言つてたぢやないの。」
「やきもちを焼くなんてそんな下品な事をするおれではない。が、しかし、少くともお前よりはお照のはうが声が佳くて、しかも美人だ。」
「ひどいわ。」
「喧嘩はおよし、つまらない。それよりも、このひとを、いつたいどうするの? ほつて置いたら死にますよ。可哀想に。どんなにお照さんに逢ひたいのか、毎日毎日この竹藪を捜して歩いて、さうしてたうとうこんな有様になつてしまつて、気の毒ぢやないの。このひとは、きつと、実《じつ》のあるひとだわ。」
「なに、ばかだよ。いいとしをして雀の子のあとを追ひ廻すなんて、呆れたばかだよ。」
「そんな事を言はないで、ね、逢はしてあげませうよ。お照さんだつて、このひとに逢ひたがつてゐるらしいわ。でも、もう舌を抜かれて口がきけないのだからねえ、このひとがお照さんを捜してゐるといふ事を言つて聞かせてあげても、藪のあの奥で寝たまま、ぽろぽろ涙を流してゐるばかりなのよ。このひとも可哀想だけれども、お照さんだつて、そりや可哀想よ。ね、あたしたちの力で何とかしてあげませうよ。」
「おれは、いやだ。おれはどうも色恋の沙汰には同情を持てないたちでねえ。」
「色恋ぢやないわ。あなたには、わからない。ね、みなさん、何とかして逢はせてあげたいものだわねえ。こんな事は、理窟ぢやないんですもの。」
「さうとも、さうとも。おれが引受けた。なに、わけはない。神さまにたのむんだ。理窟抜きで、なんとかして他の者のために尽してやりたいと思つた時には、神さまにたのむのが一ばんいいのだ。おれのおやぢがいつかさう言つて教へてくれた。そんな時には神さまは、どんな事でも叶へて下さるさうだ。まあ、みんな、ちよつとここで待つてゐてくれ。おれはこれから、鎮守の森の神さまにたのんで来るから。」
お爺さんが、ふつと眼の覚めたところは、竹の柱の小綺麗な座敷である。起き上つてあたりを見廻してゐると、すつと襖があいて、身長二尺くらゐのお人形さんが出て来て、
「あら、おめざめ?」
「ああ、」とお爺さんは鷹揚に笑ひ、「ここはどこだらう。」
「すずめのお宿。」とそのお人形さんみたいな可愛い女の子が、お爺さんの前にお行儀よく坐り、まんまるい眼をぱちくりさせて答へる。
「さう。」とお爺さんは落ちついて首肯き、「お前は、それでは、あの、舌切雀?」
「いいえ、お照さんは奥の間で寝てゐます。私は、お鈴。お照さんとは一ばんの仲良し。」
「さうか。それでは、あの、舌を抜かれた小雀の名は、お照といふの?」
「ええ、とても優しい、いいかたよ。早く逢つておあげなさい。可哀想に口がきけなくなつて、毎日ぽろぽろ涙を流して泣いてゐます。」
「逢ひませう。」とお爺さんは立ち上り、「どこに寝てゐるのですか。」
「ご案内します。」お鈴さんは、はらりと長い袖を振つて立ち、縁側に出る。
お爺さんは、青竹の狭い縁を滑らぬやうに、用心しながらそつと渡る。
「ここです、おはひり下さい。」
お鈴さんに連れられて、奥の一間にはひる。あかるい部屋だ。庭には小さい笹が一めんに生え繁り、その笹の間を浅い清水が素早く流れてゐる。
お照さんは小さい赤い絹布団を掛けて寝てゐた。お鈴さんよりも、さらに上品な美しいお人形さんで、少し顔色が青かつた。大きい眼でお爺さんの顔をじつと見つめて、さうして、ぽろぽろと涙を流した。
お爺さんはその枕元にあぐらをかいて坐つて、何も言はず、庭を走り流れる清水を見てゐる。お鈴さんは、そつと席をはづした。
何も言はなくてもよかつた。お爺さんは、幽かに溜息をついた。憂鬱の溜息ではなかつた。お爺さんは、生れてはじめて心の平安を経験したのだ。そのよろこびが、幽かな溜息となつてあらはれたのである。
お鈴さんは静かにお酒とお肴を持ち運んで来て、
「ごゆつくり。」と言つて立ち去る。
お爺さんはお酒をひとつ手酌で飲んで、また庭の清水を眺める。お爺さんは、所謂お酒飲みではない。一杯だけで、陶然と酔ふ。箸を持つて、お膳のたけのこを一つだけつまんで食べる。素敵においしい。しかし、お爺さんは、大食ひではない。それだけで箸を置く。
襖があいて、お鈴さんがお酒のおかはりと、別な肴を持つて来る。お爺さんの前に坐つて、
「いかが?」とお酒をすすめる。
「いや、もうたくさん。しかし、これは、よいお酒だ。」お世辞を言つたのではない。思はず、それが口に出たのだ。
「お気に召しましたか。笹の露です。」
「よすぎる。」
「え?」
「よすぎる。」
お爺さんとお鈴さんの会話を寝ながら聞いてゐて、お照さんは微笑んだ。
「あら、お照さんが笑つてゐるわ。何か言ひたいのでせうけれど。」
お照さんは首を振つた。
「言へなくたつて、いいのさ。さうだね?」とお爺さんは、はじめてお照さんのはうを向いて話かける。
お照さんは、眼をぱちぱちさせて、嬉しさうに二三度うなづく。
「さ、それでは失礼しよう。また来る。」
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