ゐて、さうしてそれつきりである。屋根はもちろん、柱一本も無く、見渡す限り廃墟と言つていいくらゐの荒涼たる大広場である。気をつけて見ると、それでも小粒の珠のすきまから、ちよいちよい紫色の小さい花が顔を出してゐるのが見えて、それがまた、かへつて淋しさを添へ、これが幽邃の極といふのかも知れないが、しかし、よくもまあ、こんな心細いやうな場所で生活が出来るものだ、と感歎の溜息に似たものがふうと出て、さらにまた思ひをあらたにして乙姫の顔をそつと盗み見た。
 乙姫は無言で、くるりとうしろを向き、そろそろと歩き出す。その時はじめて気がついたのであるが、乙姫の背後には、めだかよりも、もつと小さい金色の魚が無数にかたまつてぴらぴら泳いで、乙姫が歩けばそのとほりに従つて移動し、そのさまは金色の雨がたえず乙姫の身辺に降り注いでゐるやうにも見えて、さすがにこの世のものならぬ貴い気配が感ぜられた。
 乙姫は身にまとつてゐる薄布をなびかせ裸足で歩いてゐるが、よく見ると、その青白い小さい足は、下の小粒の珠を踏んではゐない。足の裏と珠との間がほんのわづか隙《す》いてゐる。あの足の裏は、いまだいちども、ものを踏んだ事が無
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