上をごらんなさい。乙姫さまがお迎へに出てゐます。やあ、けふはまた一段とお綺麗。」
 桜桃の坂の尽きるところに、青い薄布を身にまとつた小柄の女性が幽かに笑ひながら立つてゐる。薄布をとほして真白い肌が見える。浦島はあわてて眼をそらし、
「乙姫か。」と亀に囁く。浦島の顔は真赤である。
「きまつてゐるぢやありませんか。何をへどもどしてゐるのです。さあ、早く御挨拶をなさい。」
 浦島はいよいよまごつき、
「でも、何と言つたらいいんだい。私のやうなものが名乗りを挙げてみたつて、どうにもならんし、どだいどうも、私たちの訪問は唐突だよ。意味が無いよ。帰らうよ。」と上級の宿命の筈の浦島も、乙姫の前では、すつかり卑屈になつて逃支度をはじめた。
「乙姫さまは、あなたの事なんか、もうとうにご存じですよ。階前万里といふぢやありませんか。観念して、ただていねいにお辞儀しておけばいいのです。また、たとひ乙姫さまが、あなたの事を何もご存じ無くつたつて、乙姫さまは警戒なんてケチくさい事はてんで知らないお方ですから、何も斟酌には及びません。遊びに来ましたよ、と言へばいい。」
「まさか、そんな失礼な。ああ、笑つていらつしや
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