かに恭々粛々と歩を運び、
「ふつつかながら。」と会釈し、鉄扇はらりと開き、屹つと月を見上げて、大樹の如く凝然と動かず。しばらく経つて、とんと軽く足踏みして、おもむろに呻き出すは、
「是は阿波の鳴門に一夏《いちげ》を送る僧にて候。さても此浦は平家の一門果て給ひたる所なれば痛はしく存じ、毎夜此磯辺に出でて御経を読み奉り候。磯山に、暫し岩根のまつ程に、暫し岩根のまつ程に、誰が夜舟とは白波に、楫音ばかり鳴門の、浦静かなる今宵かな、浦静かなる今宵かな。きのふ過ぎ、けふと暮れ、明日またかくこそ有るべけれ。」そろりとわづかに動いて、またも屹つと月を見上げて端凝たり。
[#ここから2字下げ、ゴシック体]
オニドモ ヘイコウ
ジユンジユンニ タツテ ニゲマス
ヤマオクヘ
[#ここで字下げ終わり]
「待つて下さい!」とお旦那は悲痛の声を挙げて鬼の後を追ひ、「いま逃げられては、たまりません。」
「逃げろ、逃げろ。鍾馗かも知れねえ。」
「いいえ、鍾馗ではございません。」とお旦那も、ここは必死で追ひすがり、「お願ひがございます。この瘤を、どうか、どうかとつて下さいまし。」
「何、瘤?」鬼はうろたへてゐるので聞き
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