置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに美人でもないが色白くぽつちやりして、少し蓮葉なくらゐいつも陽気に笑つてはしやいでゐる。十二、三の娘がひとりあつて、これはなかなかの美少女であるが、性質はいくらか生意気の傾向がある。でも、この母と娘は気が合つて、いつも何かと笑ひ騒ぎ、そのために、この家庭は、お旦那の苦虫を噛みつぶしたやうな表情にもかかはらず、まづ明るい印象を人に与へる。
「お母さん。お父さんの瘤は、どうしてそんなに赤いのかしら。蛸の頭みたいね。」と生意気な娘は、無遠慮に率直な感想を述べる。母は叱りもせず、ほほほと笑ひ、
「さうね、でも、木魚《もくぎよ》を頬ぺたに吊してゐるやうにも見えるわね。」
「うるさい!」と旦那は怒り、ぎよろりと妻子を睨んですつくと立ち上り、奥の薄暗い部屋に退却して、そつと鏡を覗き、がつかりして、
「これは、駄目だ。」と呟く。
いつそもう、小刀で切つて落さうか、死んだつて
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