客さんは、どこへいらつしやいました。」
「お客さんか。」お爺さんは、れいに依つて言葉を濁す。
「いいえ、あなたは今たしかに誰かと話をしてゐましたよ。それも私の悪口をね。まあ、どうでせう、私にものを言ふ時には、いつも口ごもつて聞きとれないやうな大儀さうな言ひ方ばかりする癖に、あの娘さんには、まるで人が変つたみたいにあんな若やいだ声を出して、たいへんごきげんさうに、おしやべりしていらしたぢやないの。あなたこそ、まだ色気がありますよ。ありすぎて、べたべたです。」
「さうかな。」とお爺さんは、ぼんやり答へて、「しかし、誰もゐやしない。」
「からかはないで下さい。」とお婆さんは本気に怒つてしまつた様子で、どさんと縁先に腰をおろし、「あなたはいつたいこの私を、何だと思つていらつしやるのです。私はずいぶん今までこらへて来ました。あなたはもう、てんで私を馬鹿にしてしまつてゐるのですもの。そりやもう私は、育ちもよくないし学問も無いし、あなたのお話相手が出来ないかも知れませんが、でも、あんまりですわ。私だつて、若い時からあなたのお家へ奉公にあがつてあなたのお世話をさせてもらつて、それがまあ、こんな事になつ
前へ 次へ
全147ページ中129ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング