を食べつけてゐるので、鼻には自信が無い。けげんな面持で頸《くび》をひねり、「気のせゐかなあ。あれあれ、何だか火が燃えてゐるやうな、パチパチボウボウつて音がするぢやないか。」
「それやその筈よ。ここは、パチパチのボウボウ山だもの。」
「嘘つけ。お前は、ついさつき、ここはカチカチ山だつて言つた癖に。」
「さうよ、同じ山でも、場所に依つて名前が違ふのよ。富士山の中腹にも小富士といふ山があるし、それから大室山だつて長尾山だつて、みんな富士山と続いてゐる山ぢやないの。知らなかつたの?」
「うん、知らなかつた。さうかなあ、ここがパチパチのボウボウ山とは、おれが三十何年間、いや、兄の話に依れば、ここはただの裏山だつたが、いや、これは、ばかに暖くなつて来た。地震でも起るんぢやねえだらうか。何だかけふは薄気味の悪い日だ。やあ、これは、ひどく暑い。きやあつ! あちちちち、ひでえ、あちちちち、助けてくれ、柴が燃えてる。あちちちち。」

 その翌る日、狸は自分の穴の奥にこもつて唸り、
「ああ、くるしい。いよいよ、おれも死ぬかも知れねえ。思へば、おれほど不仕合せな男は無い。なまなかに男振りが少し佳く生れて来たばかりに、女どもが、かへつて遠慮しておれに近寄らない。いつたいに、どうも、上品に見える男は損だ。おれを女ぎらひかと思つてゐるのかも知れねえ。なあに、おれだつて決して聖人ぢやない。女は好きさ。それだのに、女はおれを高邁な理想主義者だと思つてゐるらしく、なかなか誘惑してくれない。かうなればいつそ、大声で叫んで走り狂ひたい。おれは女が好きなんだ! あ、いてえ、いてえ。どうも、この火傷《やけど》といふものは始末がわるい。づきづき痛む。やつと狸汁から逃れたかと思ふと、こんどは、わけのわからねえボウボウ山とかいふのに足を踏み込んだのが、運のつきだ。あの山は、つまらねえ山であつた。柴がボウボウ燃え上るんだから、ひどい。三十何年、」と言ひかけて、あたりをぎよろりと見廻し、「何を隠さう、おれあことし三十七さ、へへん、わるいか、もう三年経てば四十だ、わかり切つた事だ、理の当然といふものだ、見ればわかるぢやないか。あいたたた、それにしても、おれが生れてから三十七年間、あの裏山で遊んで育つて来たのだが、つひぞいちども、あんなへんな目に遭つた事が無い。カチカチ山だの、ボウボウ山だの、名前からして妙に出来てる。はて、不思議だ。」とわれとわが頭を殴りつけて思案にくれた。
 その時、表で行商の呼売りの声がする。
「仙金膏はいかが。やけど、切傷、色黒に悩むかたはゐないか。」
 狸は、やけど切傷よりも、色黒と聞いてはつとした。
「おうい、仙金膏。」
「へえ、どちらさまで。」
「こつちだ、穴の奥だよ。色黒にもきくかね。」
「それはもう、一日で。」
「ほほう、」とよろこび、穴の奥からゐざり出て、「や! お前は、兎。」
「ええ、兎には違ひありませんが、私は男の薬売りです。ええ、もう三十何年間、この辺をかうして売り歩いてゐます。」
「ふう、」と狸は溜息をついて首をかしげ、「しかし、似た兎もあるものだ。三十何年間、さうか、お前がねえ。いや、歳月の話はよさう。糞面白くもない。しつつこいぢやないか。まあ、そんなわけのものさ。」としどろもどろのごまかし方をして、「ところで、おれにその薬を少しゆづつてくれないか。実はちよつと悩みのある身なのでな。」
「おや、ひどい火傷ですねえ。これは、いけない。ほつて置いたら、死にますよ。」
「いや、おれはいつそ死にてえ。こんな火傷なんかどうだつていいんだ。それよりも、おれは、いま、その、容貌の、――」
「何を言つていらつしやるんです。生死の境ぢやありませんか。やあ、背中が一ばんひどいですね。いつたい、これはどうしたのです。」
「それがねえ、」と狸は口をゆがめて、「パチパチのボウボウ山とかいふきざな名前の山に踏み込んだばつかりにねえ、いやもう、とんだ事になつてねえ、おどろきましたよ。」
 兎は思はず、くすくす笑つてしまつた。狸は、兎がなぜ笑つたのかわからなかつたが、とにかく自分も一緒に、あははと笑ひ、
「まつたくねえ。ばかばかしいつたらありやしないのさ。お前にも忠告して置きますがね、あの山へだけは行つちやいけないぜ。はじめ、カチカチ山といふのがあつて、それからいよいよパチパチのボウボウ山といふ事になるんだが、あいつあいけない。ひでえ事になつちやふ。まあ、いい加減に、カチカチ山あたりでごめんかうむつて来るんですな。へたにボウボウ山などに踏み込んだが最期、かくの如き始末だ。あいててて。いいですか。忠告しますよ。お前はまだ若いやうだから、おれのやうな年寄りの言は、いや、年寄りでもないが、とにかく、ばかにしないで、この友人の言だけは尊重して下さいよ。何せ、体験者の言なのだから
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