口湖の湖面は朝霧に覆はれ、白く眼下に烟つてゐる。山頂では狸と兎が朝露を全身に浴びながら、せつせと柴を刈つてゐる。
 狸の働き振りを見るに、一心不乱どころか、ほとんど半狂乱に近いあさましい有様である。ううむ、ううむ、と大袈裟に唸りながら、めちや苦茶に鎌を振りまはして、時々、あいたたたた、などと聞えよがしの悲鳴を挙げ、ただもう自分がこのやうに苦心惨憺してゐるといふところを兎に見てもらひたげの様子で、縦横無尽に荒れ狂ふ。ひとしきり、そのやうに凄じくあばれて、さすがにもうだめだ、といふやうな疲れ切つた顔つきをして鎌を投げ捨て、
「これ、見ろ。手にこんなに豆が出来た。ああ、手がひりひりする。のどが乾く。おなかも空《す》いた。とにかく、大労働だつたからなあ。ちよつと休息といふ事にしようぢやないか。お弁当でも開きませうかね。うふふふ。」とてれ隠しみたいに妙に笑つて、大きいお弁当箱を開く。ぐいとその石油鑵ぐらゐの大きさのお弁当箱に鼻先を突込んで、むしやむしや、がつがつ、ぺつぺつ、といふ騒々しい音を立てながら、それこそ一心不乱に食べてゐる。兎はあつけにとられたやうな顔をして、柴刈りの手を休め、ちよつとそのお弁当箱の中を覗いて、あ! と小さい叫びを挙げ、両手で顔を覆つた。何だか知れぬが、そのお弁当箱には、すごいものがはひつてゐたやうである。けれども、けふの兎は、何か内証の思惑でもあるのか、いつものやうに狸に向つて侮辱の言葉も吐かず、先刻から無言で、ただ技巧的な微笑を口辺に漂はせてせつせと柴を刈つてゐるばかりで、お調子に乗つた狸のいろいろな狂態をも、知らん振りして見のがしてやつてゐるのである。狸の大きいお弁当箱の中を覗いて、ぎよつとしたけれども、やはり何も言はず、肩をきゆつとすくめて、またもや柴刈りに取かかる。狸は兎にけふはひどく寛大に扱はれるので、ただもうほくほくして、たうとうやつこさんも、おれのさかんな柴刈姿には惚れ直したかな? おれの、この、男らしさには、まゐらぬ女もあるまいて、ああ、食つた、眠くなつた、どれ一眠り、などと全く気をゆるしてわがままいつぱいに振舞ひ、ぐうぐう大鼾を掻いて寝てしまつた。眠りながらも、何のたはけた夢を見てゐるのか、惚れ薬つてのは、あれは駄目だぜ、きかねえや、などわけのわからぬ寝言を言ひ、眼をさましたのは、お昼ちかく。
「ずいぶん眠つたのね。」と兎は、やはり
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