のも、その運命は同じ事です。どつちにしたつて引返すことは出来ないんだ。試みたとたんに、あなたの運命がちやんときめられてしまふのだ。人生には試みなんて、存在しないんだ。やつてみる[#「みる」に傍点]のは、やつたのと同じだ。実にあなたたちは、往生際が悪い。引返す事が出来るものだと思つてゐる。」
「わかつたよ、わかつたよ。それでは信じて乗せてもらはう!」
「よし来た。」
 亀の甲羅に浦島が腰をおろしたとみるみる亀の背中はひろがつて畳二枚くらゐ敷けるくらゐの大きさになり、ゆらりと動いて海にはひる。汀から一丁ほど泳いで、それから亀は、
「ちよつと眼をつぶつて。」ときびしい口調で命令し、浦島は素直に眼をつぶると夕立ちの如き音がして、身辺ほのあたたかく、春風に似て春風よりも少し重たい風が耳朶をなぶる。
「水深千尋。」と亀が言ふ。
 浦島は船酔ひに似た胸苦しさを覚えた。
「吐いてもいいか。」と眼をつぶつたまま亀に尋ねる。
「なんだ、へどを吐くのか。」と亀は以前の剽軽な口調にかへつて、「きたねえ船客だな。おや、馬鹿正直に、まだ眼をつぶつてゐやがる。これだから私は、太郎さんが好きさ。もう眼をあいてもよござんすよ。眼をあいて、よもの景色をごらんになつたら、胸の悪いのなんかすぐになほつてしまひます。」
 眼をひらけば冥茫模糊、薄みどり色の奇妙な明るさで、さうしてどこにも影が無く、ただ茫々たるものである。
「竜宮か。」と浦島は寝呆けてゐるやうな間《ま》伸びた口調で言つた。
「何を言つてるんだ。まだやつと水深千尋ぢやないか。竜宮は海底一万尋だ。」
「へええ。」浦島は妙な声を出した。「海つてものは、広いもんだねえ。」
「浜育ちのくせに、山奥の猿みたいな事を言ふなよ。あなたの家の泉水よりは少し広いさ。」
 前後左右どちらを見ても、ただ杳々茫々、脚下を覗いてもやはり際限なく薄みどり色のほの明るさが続いてゐるばかりで、上を仰いでも、これまた蒼穹に非ざる洸洋たる大洞、ふたりの話声の他には、物音一つ無く、春風に似て春風よりも少しねばつこいやうな風が浦島の耳朶をくすぐつてゐるだけである。
 浦島はやがて遥か右上方に幽かな、一握りの灰を撒いたくらゐの汚点を認めて、
「あれは何だ。雲かね?」と亀に尋ねる。
「冗談言つちやいけねえ。海の中に雲なんか流れてゐやしねえ。」
「それぢや何だ。墨汁一滴を落したやうな感じだ
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