さいお土産はありませんか。」
「そんなご無理をおつしやつたつて、――」
「そんなら帰る。はだしでもかまはない。荷物はごめんだ。」と言つてお爺さんは、本当にはだしのままで、縁の外に飛び出さうとする気配を示した。
「ちよつと待つて、ね、ちよつと。お照さんに聞いて来るわ。」
はたはたとお鈴さんは奥の間に飛んで行き、さうして、間もなく、稲の穂を口にくはへて帰つて来た。
「はい、これは、お照さんの簪《かんざし》。お照さんを忘れないでね。またいらつしやい。」
ふと、われにかへる。お爺さんは、竹藪の入口に俯伏して寝てゐた。なんだ、夢か。しかし、右手には稲の穂が握られてある。真冬の稲の穂は珍らしい。さうして、薔薇の花のやうな、とてもよい薫りがする。お爺さんはそれを大事さうに家へ持つて帰つて、自分の机上の筆立に挿す。
「おや、それは何です。」お婆さんは、家で針仕事をしてゐたが、眼ざとくそれを見つけて問ひただす。
「稲の穂。」とれいの口ごもつたやうな調子で言ふ。
「稲の穂? いまどき珍らしいぢやありませんか。どこから拾つて来たのです。」
「拾つて来たのぢやない。」と低く言つて、お爺さんは書物を開いて黙読をはじめる。
「をかしいぢやありませんか。このごろ毎日、竹藪の中をうろついて、ぼんやり帰つて来て、けふはまた何だか、いやに嬉しさうな顔をしてそんなものを持ち帰り、もつたい振つて筆立に挿したりなんかして、あなたは、何か私に隠してゐますね。拾つたのでなければ、どうしたのです。ちやんと教へて下さつたつていいぢやありませんか。」
「雀の里から、もらつて来た。」お爺さんは、うるささうに、ぷつんと言ふ。
けれども、そんな事で、現実主義のお婆さんを満足させることはとても出来ない。お婆さんは、なほもしつつこく次から次へと詰問する。嘘を言ふ事の出来ないお爺さんは、仕方なく自分の不思議な経験をありのままに答へる。
「まあ、そんな事、本気であなたは言つてゐるのですか。」とお婆さんは、最後に呆れて笑ひ出した。
お爺さんは、もう答へない。頬杖ついて、ぼんやり書物に眼をそそいでゐる。
「そんな出鱈目を、この私が信じると思つておいでなのですか。嘘にきまつてゐますさ。私は知つてゐますよ。こなひだから、さう、こなひだ、ほら、あの、若い娘のお客さんが来た頃から、あなたはまるで違ふ人になつてしまひました。妙にそはそは
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