いふの?」
「ええ、とても優しい、いいかたよ。早く逢つておあげなさい。可哀想に口がきけなくなつて、毎日ぽろぽろ涙を流して泣いてゐます。」
「逢ひませう。」とお爺さんは立ち上り、「どこに寝てゐるのですか。」
「ご案内します。」お鈴さんは、はらりと長い袖を振つて立ち、縁側に出る。
お爺さんは、青竹の狭い縁を滑らぬやうに、用心しながらそつと渡る。
「ここです、おはひり下さい。」
お鈴さんに連れられて、奥の一間にはひる。あかるい部屋だ。庭には小さい笹が一めんに生え繁り、その笹の間を浅い清水が素早く流れてゐる。
お照さんは小さい赤い絹布団を掛けて寝てゐた。お鈴さんよりも、さらに上品な美しいお人形さんで、少し顔色が青かつた。大きい眼でお爺さんの顔をじつと見つめて、さうして、ぽろぽろと涙を流した。
お爺さんはその枕元にあぐらをかいて坐つて、何も言はず、庭を走り流れる清水を見てゐる。お鈴さんは、そつと席をはづした。
何も言はなくてもよかつた。お爺さんは、幽かに溜息をついた。憂鬱の溜息ではなかつた。お爺さんは、生れてはじめて心の平安を経験したのだ。そのよろこびが、幽かな溜息となつてあらはれたのである。
お鈴さんは静かにお酒とお肴を持ち運んで来て、
「ごゆつくり。」と言つて立ち去る。
お爺さんはお酒をひとつ手酌で飲んで、また庭の清水を眺める。お爺さんは、所謂お酒飲みではない。一杯だけで、陶然と酔ふ。箸を持つて、お膳のたけのこを一つだけつまんで食べる。素敵においしい。しかし、お爺さんは、大食ひではない。それだけで箸を置く。
襖があいて、お鈴さんがお酒のおかはりと、別な肴を持つて来る。お爺さんの前に坐つて、
「いかが?」とお酒をすすめる。
「いや、もうたくさん。しかし、これは、よいお酒だ。」お世辞を言つたのではない。思はず、それが口に出たのだ。
「お気に召しましたか。笹の露です。」
「よすぎる。」
「え?」
「よすぎる。」
お爺さんとお鈴さんの会話を寝ながら聞いてゐて、お照さんは微笑んだ。
「あら、お照さんが笑つてゐるわ。何か言ひたいのでせうけれど。」
お照さんは首を振つた。
「言へなくたつて、いいのさ。さうだね?」とお爺さんは、はじめてお照さんのはうを向いて話かける。
お照さんは、眼をぱちぱちさせて、嬉しさうに二三度うなづく。
「さ、それでは失礼しよう。また来る。」
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