はれて、さてはこの馬鹿も何か感づいたかな? とぎよつとして狸の顔つきを盗み見たが、何の事は無い、狸は鼻の下を長くしてにやにや笑ひながら、もはや夢路をたどつてゐる。鮒がとれたら起してくれ。あいつあ、うめえからなあ。おれは三十七だよ。などと馬鹿な寝言を言つてゐる。兎は、ふんと笑つて狸の泥舟を兎の舟につないで、それから、櫂でぱちやと水の面を撃つ。するすると二艘の舟は岸を離れる。
 ※[#「盧+鳥」、第3水準1−94−73]※[#「茲+鳥」、第3水準1−94−66]島《うがしま》の松林は夕陽を浴びて火事のやうだ。ここでちよつと作者は物識り振るが、この島の松林を写生して図案化したのが、煙草の「敷島」の箱に描かれてある、あれだといふ話だ。たしかな人から聞いたのだから、読者も信じて損は無からう。もつとも、いまはもう「敷島」なんて煙草は無くなつてゐるから、若い読者には何の興味も無い話である。つまらない知識を振りまはしたものだ。とかく識つたかぶりは、このやうな馬鹿らしい結果に終る。まあ、生れて三十何年以上にもなる読者だけが、ああ、あの松か、と芸者遊びの記憶なんかと一緒にぼんやり思ひ出して、つまらなさうな顔をするくらゐが関の山であらうか。
 さて兎は、その※[#「盧+鳥」、第3水準1−94−73]※[#「茲+鳥」、第3水準1−94−66]島の夕景をうつとり望見して、
「おお、いい景色。」と呟く。これは如何にも奇怪である。どんな極悪人でも、自分がこれから残虐の犯罪を行はうといふその直前に於いて、山水の美にうつとり見とれるほどの余裕なんて無いやうに思はれるが、しかし、この十六歳の美しい処女は、眼を細めて島の夕景を観賞してゐる。まことに無邪気と悪魔とは紙一重である。苦労を知らぬわがままな処女の、へどが出るやうな気障つたらしい姿態に対して、ああ青春は純真だ、なんて言つて垂涎してゐる男たちは、気をつけるがよい。その人たちの所謂「青春の純真」とかいふものは、しばしばこの兎の例に於けるが如く、その胸中に殺意と陶酔が隣合せて住んでゐても平然たる、何が何やらわからぬ官能のごちやまぜの乱舞である。危険この上ないビールの泡だ。皮膚感覚が倫理を覆つてゐる状態、これを低能あるいは悪魔といふ。ひところ世界中に流行したアメリカ映画、あれには、こんな所謂「純真」な雄や雌がたくさん出て来て、皮膚感触をもてあまして擽つた
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