おしゃれ童子
太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お洒落《しゃれ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)孤独|寂寥《せきりょう》の感に堪えかね、
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 子供のころから、お洒落《しゃれ》のようでありました。小学校、毎年三月の修業式のときには必ず右総代として校長から賞品をいただくのであるが、その賞品を壇上の校長から手渡してもらおうと、壇の下から両手を差し出す。厳粛な瞬間である。その際、この子は何よりも、自分の差し出す両腕の恰好《かっこう》に、おのれの注意力の全部を集めているのです。絣《かすり》の着物の下に純白のフランネルのシャツを着ているのですが、そのシャツが着物の袖口《そでぐち》から、一寸《いっすん》ばかり覗《のぞ》き出て、シャツの白さが眼にしみて、いかにも自身が天使のように純潔に思われ、ひとり、うっとり心酔してしまうのでした。修業式のまえの晩、袴《はかま》と晴着と、それから仕立おろしの白いフランネルのシャツとを、枕もとに並べて置いて寝て、なかなか眠れず、二度も三度も枕からそっと頭をもたげては、枕もとの品品《しなじな》を見ました。まだ、そのころはランプゆえ部屋は薄暗いものでしたが、それでもフランネルのシャツは、純白に光って、燃えているようでした。一夜明けて修業式の朝、起きて素早くシャツを着込み、あるときは、年とった女中に内緒《ないしょ》にたのんで、シャツの袖口のボタンを、更に一つずつ多く縫いつけさせたこともありました。賞品をもらうときシャツの袖がちらと出て、貝のボタンが三つも四つも、きらきら光り輝くように企てたのでした。家を出て、学校へ行く途々《みちみち》も、こっそり両腕を前方へ差し出し、賞品をもらう真似をして、シャツの袖が、あまり多くもなく、少くもなく、ちょうどいい工合《ぐあ》いに出るかどうか、なんどもなんども下検分してみるのでした。
 誰にも知られぬ、このような侘《わ》びしいおしゃれは、年一年と工夫に富み、村の小学校を卒業して馬車にゆられ汽車に乗り十里はなれた県庁所在地の小都会へ、中学校の入学試験を受けるために出掛けたときの、そのときの少年の服装は、あわれに珍妙なものでありました。白いフランネルのシャツは、よっぽど気に入っていたものとみえて、やはり、そのときも着ていました。しかも、こんどのシャツには蝶々の翅《はね》のような大きい襟《えり》がついていて、その襟を、夏の開襟《かいきん》シャツの襟を背広の上衣の襟の外側に出してかぶせているのと、そっくり同じ様式で、着物の襟の外側にひっぱり出し、着物の襟に覆いかぶせているのです。なんだか、よだれ掛けのようにも見えます。でも、少年は悲しく緊張して、その風俗が、そっくり貴公子のように見えるだろうと思っていたのです。久留米絣《くるめがすり》に、白っぽい縞《しま》の、短い袴をはいて、それから長い靴下、編上のピカピカ光る黒い靴。それからマント。父はすでに歿し、母は病身ゆえ、少年の身のまわり一切は、やさしい嫂《あによめ》の心づくしでした。少年は、嫂に怜悧に甘えて、むりやりシャツの襟を大きくしてもらって、嫂が笑うと本気に怒り、少年の美学が誰にも解せられぬことを涙が出るほど口惜《くや》しく思うのでした。「瀟洒《しょうしゃ》、典雅。」少年の美学の一切は、それに尽きていました。いやいや、生きることのすべて、人生の目的全部がそれに尽きていました。
 マントは、わざとボタンを掛けず、小さい肩から今にも滑り落ちるように、あやうく羽織って、そうしてそれを小粋《こいき》な業だと信じていました。どこから、そんなことを覚えたのでしょう。おしゃれの本能というものは、手本がなくても、おのずから発明するものかも知れません。
 ほとんど生れてはじめて都会らしい都会に足を踏みこむのでしたから、少年にとっては一世一代の凝《こ》った身なりであったわけです。興奮のあまり、その本州北端の一小都会に着いたとたんに、少年の言葉つきまで一変してしまっていたほどでした。かねて少年雑誌で習い覚えてあった東京弁を使いました。けれども宿に落ちつき、その宿の女中たちの言葉を聞くと、ここもやっぱり少年の生れ故郷と全く同じ、津軽弁でありましたので、少年はすこし拍子抜けがしました。生れ故郷と、その小都会とは、十里も離れていないのでした。
 中学校へはいってからは、校規のきびしい学校でしたので、おしゃれも仲々《なかなか》むずかしく、やけくそになって、ズボンの寝押しも怠り、靴も磨かず、胴乱《どうらん》をだらんとさげて、わざと猫背になって歩きました。そのときの猫背が癖になって、十五年のちの、いまになっても、なおりません。あのころは、おしゃれの暗黒時代と言えましょう。
 その小都会から更に十里はなれた或る城下まちの高等学校にはいってからは、少年のお洒落も、のびのびと発展いたしました。発展しすぎて、やはり珍妙なものになりました。マントを三種類つくりました。一枚のマントは、海軍紺《ネビイブルウ》のセル地で、吊鐘《つりがね》マントでありました。引きずるほど、長く造らせました。少年もそのころは、背丈もひょろひょろ伸びて五尺七寸ちかくになっていましたので、そのマントは、悪魔の翼のようで、頗《すこぶ》る効果がありました。このマントを着るときには、帽子を被《かぶ》りませんでした。魔法使いに、白線ついた制帽は不似合いと思ったのかも知れません。「オペラの怪人」という綽名《あだな》を友人達から貰って、顔をしかめ、けれども内心まんざらでもないのでした。もう一枚のマントはプリンス・オヴ・ウエルスの、海軍将校としてのあの御姿を美しいと思って、あれをお手本にして造らせました。ところどころに少年の独創も加味されていました。第一に、襟です。大きい広い襟でした。どういうわけか広い襟を好んだようです。その襟には黒のビロオドを張りました。胸はダブルの、金ボタンを七つずつ、きっちり並べて附けました。ボタンの列の終ったところで、きゅっと細く胴を締めて、それから裾《すそ》が、ぱっとひらいて短く、そこのリズムが至極軽妙を必要とするので、洋服屋に三度も縫い直しを命じました。袖も細めに、袖口には、小さい金ボタンを四つずつ縦に並べて附けさせました。黒の、やや厚いラシャ地でした。これを冬の外套《がいとう》として用いました。この外套には、白線の制帽も似合って、まさしく英国の海軍将校のように見えるだろうと、すこし自信もあったようです。白のカシミヤの手袋を用い、厳寒の候には、白い絹のショオルをぐるぐる頸《くび》に巻きつけました。凍え死すとも、厚ぼったい毛糸の類は用いぬ覚悟の様でした。けれども、この外套は、友だちに笑われました。大きい襟を指さして、よだれかけみたいだね、失敗だね、大黒様《だいこくさま》みたいだね、と言って大笑いした友人がひとりあったのでした。また、やあ君か、おまわりさんかと思った、と他意なく驚く友人もありました。北方の海軍士官は、情無く思いました。やがて、その外套を止しました。さらに一枚、造りました。こんどは、黒のラシャ地を敬遠して、コバルト色のセル地を選び、それでもって再び海軍士官の外套を試みました。乾坤一擲《けんこんいってき》の意気でありました。襟は、ぐっと小さく、全体を更に細めに華奢《きゃしゃ》に、胴のくびれは痛いほど、きゅっと締めて、その外套を着るときには、少年はひそかにシャツを一枚脱がなければならなかったのでした。この外套に対しては、誰もなんとも言いませんでした。友人たちも笑わず、ただ、へんに真面目なよそよそしい顔になって、そうしてすぐ顔をそむけました。少年も、その輝くほどの外套を着ながら、流石《さすが》に孤独|寂寥《せきりょう》の感に堪えかね、泣きべそかいてしまいました。お洒落ではあっても、心は弱い少年だったのです。とうとうその苦心の外套をも廃止して、中学時代からのボロボロのマントを、頭からすっぽりかぶって、喫茶店へ葡萄酒《ぶどうしゅ》飲みに出かけたりするようになりました。
 喫茶店で、葡萄酒飲んでいるうちは、よかったのですが、そのうちに割烹《かっぽう》店へ、のこのこはいっていって芸者と一緒に、ごはんを食べることなど覚えたのです。少年は、それを別段、わるいこととも思いませんでした。粋な、やくざなふるまいは、つねに最も高尚な趣味であると信じていました。城下まちの、古い静かな割烹店へ、二度、三度、ごはんを食べに行っているうちに、少年のお洒落の本能はまたもむっくり頭をもたげ、こんどは、それこそ大変なことになりました。芝居で見た「め組の喧嘩《けんか》」の鳶《とび》の者の服装して、割烹店の奥庭に面したお座敷で大あぐらかき、おう、ねえさん、きょうはめっぽう、きれえじゃねえか、などと言ってみたく、ワクワクしながら、その服装の準備にとりかかりました。紺《こん》の腹掛。あれは、すぐ手にはいりました。あの腹掛のドンブリに、古風な財布をいれて、こう懐手《ふところで》して歩くと、いっぱしの、やくざに見えます。角帯も買いました。締め上げると、きゅっと鳴る博多の帯です。唐桟《とうざん》の単衣《ひとえ》を一まい呉服屋さんにたのんで、こしらえてもらいました。鳶の者だか、ばくち打ちだか、お店《たな》ものだか、わけのわからぬ服装になってしまいました。統一が無いのです。とにかく、芝居に出て来る人物の印象を与えるような服装だったら、少年はそれで満足なのでした。初夏のころで、少年は素足に麻裏|草履《ぞうり》をはきました。そこまでは、よかったのですが、ふと少年は妙なことを考えました。それは股引《ももひき》に就《つ》いてでありました。紺の木綿《もめん》のピッチリした長股引を、芝居の鳶の者が、はいているようですけれど、あれを欲しいと思いました。ひょっとこめ、と言って、ぱっと裾をさばいて、くるりと尻をまくる。あのときに紺の股引が眼にしみるほど引き立ちます。さるまた一つでは、いけません。少年は、その股引を買い求めようと、城下まち端から端まで走り廻りました。どこにも無いのです。あのね、ほら、左官屋さんなんか、はいているじゃないか、ぴちっとした紺の股引さ、あんなの無いかしら、ね、と懸命に説明して呉服屋さん、足袋屋《たびや》さんに聞いて歩いたのですが、さあ、あれは、いま、と店の人たち笑いながら首を振るのでした。もう、だいぶ暑いころで、少年は、汗だくで捜し廻り、とうとう或る店の主人から、それは、うちにはございませぬが、横丁まがると消防のもの専門の家がありますから、そこへ行ってお聞きになると、ひょっとしたら、わかるかも知れません、といいこと教えられ、なるほど消防とは気がつかなかった、鳶の者と言えば、火消しのことで、いまで言えば消防だ、なるほど道理だ、と勢い附いて、その教えられた横丁の店に飛び込みました。店には大小の消火ポンプが並べられてありました。纏《まとい》もあります。なんだか心細くなって、それでも勇気を鼓舞して、股引ありますか、と尋ねたら、あります、と即座に答えて持って来たものは、紺の木綿の股引には、ちがい無いけれども、股引の両外側に太く消防のしるしの赤線が縦にずんと引かれていました。流石《さすが》にそれをはいて歩く勇気も無く、少年は淋しく股引をあきらめるより他なかったのです。
 おのれの服装が理想どおりにならないと、きっと、やけくそになる悪癖を、この少年は持っていました。希望どおり紺の股引を求めることが、できなくなって、少年の小粋の服装も目立って、いけなくなりました。紺の腹掛、唐桟の単衣に角帯、麻裏草履、そのような服装をしていながら、白線の制帽をかぶって、まちを歩いたのは、一たい、どういう美学が教えた業でしょう。そんな異様の風俗のものは、どんな芝居にだって出て来ません。たしかに少年は、やけくそになっているとしか思えません。カシミヤの白手袋を、再び用いました。唐桟、角帯、紺の腹掛、白線の制帽、白手袋、もはや収拾つかないごたごたの満艦飾《まんかんしょく》です。そんな不思議な時代が、人
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