間一生のあいだに、一時は在るものではないでしょうか。なんだか、まるで夢中なのです。持ち物全部を身につけなければ、気がすまぬのです。カシミヤの白手袋が破れて、新しいのを買おうとしても、カシミヤのは、仲々無いので、しまいには、生地は、なんであっても白手袋でさえあればという意味で、軍手になりました。兵隊さんの厚ぼったい熊の掌のように大きい白手袋であります。なにもかも、滅茶滅茶でした。少年は、そのような異様の風態で、割烹店へ行き、泉鏡花氏の小説で習い覚えた地口《じぐち》を、一生懸命に、何度も繰りかえして言っていました。女など眼中になかったのです。ただ、おのれのロマンチックな姿態だけが、問題であったのです。
やがて夢から覚めました。左翼思想が、そのころの学生を興奮させ、学生たちの顔が颯《さ》っと蒼白になるほど緊張していました。少年は上京して大学へはいり、けれども学校の講義には、一度も出席せず、雨の日も、お天気の日も、色のさめたレインコオト着て、ゴム長靴はいて、何やら街頭をうろうろしていました。お洒落の暗黒時代が、それから永いことつづきました。そうして、間もなく少年は、左翼思想をさえ裏切りました。卑劣漢の焼印を、自分で自分の額《ひたい》に押したのでした。お洒落の暗黒時代というよりは、心の暗黒時代が、十年後のいまに至るまで、つづいています。少年も、もう、いまでは鬚《ひげ》の剃《そ》り跡の青い大人になって、デカダン小説と人に曲解されている、けれども彼自身は、決してそうではないと信じている悲しい小説を書いて、細々と世を渡って居ります。昨年まずしい恋人が、できて、時々逢いに行くのに、ふっと昔のお洒落の本能が、よみがえり、けれども今となっては、あの、やさしい嫂にたのむことも、できなくなっているし、思うようにお金使って服装ととのえるなぞ、とても不可能なことなのでした。普段着いちまい在るきりで、他には、足袋の片一方さえ無い仕末でした。よほど落ちぶれて、困窮しているものと見えます。もともと、お洒落な子だったのですし、洗いざらしの浴衣《ゆかた》に、千切れた兵古帯《へこおび》ぐるぐる巻きにして恋人に逢うくらいだったら、死んだほうがいいと思いました。さんざ思い迷って、決意しました。借衣であります。お金を借りるときよりも、着物を借りる時のほうが、十倍くるしいものであること、ご存じですか。顔から火が出
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