ましたが、何だかそれも夫への皮肉みたいに響いて、かえってへんに白々しくなり、私の苦しさも極度に達して来た時、突然、お隣りのラジオがフランスの国歌をはじめまして、夫はそれに耳を傾け、
「ああ、そうか、きょうは巴里祭《パリさい》だ。」
とひとりごとのようにおっしゃって、幽《かす》かに笑い、それから、マサ子と私に半々に言い聞かせるように、
「七月十四日、この日はね、革命、……」
と言いかけて、ふっと言葉がとぎれて、見ると、夫は口をゆがめ、眼に涙が光って、泣きたいのをこらえている顔でした。それから、ほとんど涙声になって、
「バスチーユのね、牢獄を攻撃してね、民衆がね、あちらからもこちらからも立ち上って、それ以来、フランスの、春こうろうの花の宴が永遠に、永遠にだよ、永遠に失われる事になったのだけどね、でも、破壊しなければいけなかったんだ、永遠に新秩序の、新道徳の再建が出来ない事がわかっていながらも、それでも、破壊しなければいけなかったんだ、革命いまだ成らず、と孫文《そんぶん》が言って死んだそうだけれども、革命の完成というものは、永遠に出来ない事かも知れない、しかし、それでも革命を起さなければいけないんだ、革命の本質というものはそんな具合いに、かなしくて、美しいものなんだ、そんな事をしたって何になると言ったって、そのかなしさと、美しさと、それから、愛、……」
フランスの国歌は、なおつづき、夫は話しながら泣いてしまって、それから、てれくさそうに、無理にふふんと笑って見せて、
「こりゃ、どうも、お父さんは泣き上戸《じょうご》らしいぞ。」
と言い、顔をそむけて立ち、お勝手へ行って水で顔を洗いながら、
「どうも、いかん。酔いすぎた。フランス革命で泣いちゃった。すこし寝るよ。」
とおっしゃって、六畳間へ行き、それっきりひっそりとなってしまいましたが、身をもんで忍び泣いているに違いございません。
夫は、革命のために泣いたのではありません。いいえ、でも、フランスに於《お》ける革命は、家庭に於ける恋と、よく似ているのかも知れません。かなしくて美しいものの為に、フランスのロマンチックな王朝をも、また平和な家庭をも、破壊しなければならないつらさ、その夫のつらさは、よくわかるけれども、しかし、私だって夫に恋をしているのだ、あの、昔の紙治《かみじ》のおさんではないけれども、
女房のふところには
鬼が棲《す》むか
あああ
蛇《じゃ》が棲むか
とかいうような悲歎には、革命思想も破壊思想も、なんの縁《えん》もゆかりも無いような顔で素通りして、そうして女房ひとりは取り残され、いつまでも同じ場所で同じ姿でわびしい溜息《ためいき》ばかりついていて、いったい、これはどうなる事なのでしょうか、運を天にゆだね、ただ夫の恋の風の向きの変るのを祈って、忍従していなければならぬ事なのでしょうか。子供が三人もあるのです。子供のためにも、いまさら夫と、わかれる事もなりませぬ。
二夜くらいつづけて外泊すると、さすがに夫も、一夜は自分のうちに寝ます。夕食がすんでから夫は、子供たちと縁側で遊び、子供たちにさえ卑屈なおあいそみたいな事を言い、ことし生れた一ばん下の女の子をへたな手つきで抱き上げて、
「ふとっていまチねえ、べっぴんちゃんでチねえ。」
とほめて、私がつい何の気なしに、
「可愛いでしょう? 子供を見てると、ながいきしたいとお思いにならない?」
と言ったら、夫は急に妙な顔になって、
「うむ。」
と苦しそうな返事をなさったので、私は、はっとして、冷汗の出る思いでした。
うちで寝る時は、夫は、八時頃にもう、六畳間にご自分の蒲団とマサ子の蒲団を敷いて蚊帳を吊り、もすこしお父さまと遊んでいたいらしいマサ子の服を無理にぬがせてお寝巻に着換えさせてやって寝かせ、ご自分もおやすみになって電燈を消し、それっきりなのです。
私は隣りの四畳半に長男と次女を寝かせ、それから十一時頃まで針仕事をして、それから蚊帳を吊って長男と次女の間に「川」の字ではなく「小」の字になってやすみます。
ねむられないのです。隣室の夫も、ねむられない様子で、溜息が聞え、私も思わず溜息をつき、また、あのおさんの、
女房のふところには
鬼が棲《す》むか
あああ
蛇《じゃ》が棲むか
とかいう嘆きの歌が思い出され、夫が起きて私の部屋へやって来て、私はからだを固くしましたが、夫は、
「あの、睡眠剤が無かったかしら。」
「ございましたけど、あたし、ゆうべ飲んでしまいましたわ。ちっとも、ききませんでしたの。」
「飲みすぎるとかえってきかないんです。六錠くらいがちょうどいいんです。」
不機嫌《ふきげん》そうな声でした。
三
毎日、毎日、暑い日が続きました。私は、暑さと、それから心配のために、食べものが喉《のど》をとおらぬ思いで、頬《ほお》の骨が目立って来て、赤ん坊にあげるおっぱいの出もほそくなり、夫も、食《しょく》がちっともすすまぬ様子で、眼が落ちくぼんで、ぎらぎらおそろしく光って、或《あ》る時、ふふんとご自分をあざけり笑うような笑い方をして、
「いっそ発狂しちゃったら、気が楽だ。」
と言いました。
「あたしも、そうよ。」
「正しいひとは、苦しい筈《はず》が無い。つくづく僕は感心する事があるんだ。どうして、君たちは、そんなにまじめで、まっとうなんだろうね。世の中を立派に生きとおすように生れついた人と、そうでない人と、はじめからはっきり区別がついているんじゃないかしら。」
「いいえ、鈍感なんですのよ、あたしなんかは。ただ、……」
「ただ?」
夫は、本当に狂ったひとのような、へんな目つきで私の顔を見ました。私は口ごもり、ああ、言えない、具体的な事は、おそろしくて、何も言えない。
「ただね、あなたがお苦しそうだと、あたしも苦しいの。」
「なんだ、つまらない。」
と、夫は、ほっとしたように微笑《ほほえ》んでそう言いました。
その時、ふっと私は、久方振《ひさかたぶ》りで、涼《すず》しい幸福感を味わいました。(そうなんだ、夫の気持を楽にしてあげたら、私の気持も楽になるんだ。道徳も何もありやしない、気持が楽になれば、それでいいんだ。)
その夜おそく、私は夫の蚊帳《かや》にはいって行って、
「いいのよ、いいのよ。なんとも思ってやしないわよ。」
と言って、倒れますと、夫はかすれた声で、
「エキスキュウズ、ミイ。」
と冗談めかして言って、起きて、床の上にあぐらをかき、
「ドンマイ、ドンマイ。」
夏の月が、その夜は満月でしたが、その月光が雨戸の破れ目から細い銀線になって四、五本、蚊帳の中にさし込んで来て、夫の痩《や》せたはだかの胸に当っていました。
「でも、お痩せになりましたわ。」
私も、笑って、冗談めかしてそう言って、床の上に起き直りました。
「君だって、痩せたようだぜ。余計な心配をするから、そうなります。」
「いいえ、だからそう言ったじゃないの。なんとも思ってやしないわよ、って。いいのよ、あたしは利巧《りこう》なんですから。ただね、時々は、でえじにしてくんな。」
と言って私が笑うと、夫も月光を浴びた白い歯を見せて笑いました。私の小さい頃に死んだ私の里の祖父母は、よく夫婦|喧嘩《げんか》をして、そのたんびに、おばあさんが、でえじにしてくんな、とおじいさんに言い、私は子供心にもおかしくて、結婚してから夫にもその事を知らせて、二人で大笑いしたものでした。
私がその時それを言ったら、夫はやはり笑いましたが、しかし、すぐにまじめな顔になって、
「大事にしているつもりなんだがね。風にも当てず、大事にしているつもりなんだ。君は、本当にいいひとなんだ。つまらない事を気にかけず、ちゃんとプライドを持って、落ちついていなさいよ。僕はいつでも、君の事ばかり思っているんだ。その点に就《つ》いては、君は、どんなに自信を持っていても、持ちすぎるという事は無いんだ。」
といやにあらたまったみたいな、興ざめた事を言い出すので、私はひどく恰好《かっこう》が悪くなり、
「でも、あなた、お変りになったわよ。」
と顔を伏せて小声で言いました。
(私は、あなたに、いっそ思われていないほうが、あなたにきらわれ、憎まれていたほうが、かえって気持がさっぱりしてたすかるのです。私の事をそれほど思って下さりながら、他のひとを抱きしめているあなたの姿が、私を地獄につき落してしまうのです。
男のひとは、妻をいつも思っている事が道徳的だと感ちがいしているのではないでしょうか。他にすきなひとが出来ても、おのれの妻を忘れないというのは、いい事だ、良心的だ、男はつねにそのようでなければならない、とでも思い込んでいるのではないでしょうか。そうして、他のひとを愛しはじめると、妻の前で憂鬱《ゆううつ》な溜息などついて見せて、道徳の煩悶《はんもん》とかをはじめて、おかげで妻のほうも、その夫の陰気くささに感染して、こっちも溜息、もし夫が平気で快活にしていたら、妻だって、地獄の思いをせずにすむのです。ひとを愛するなら、妻を全く忘れて、あっさり無心に愛してやって下さい。)
夫は、力無い声で笑い、
「変るもんか。変りやしないさ。ただもうこの頃は暑いんだ。暑くてかなわない。夏は、どうも、エキスキュウズ、ミイだ。」
とりつくしまも無いので、私も、少し笑い、
「にくいひと。」
と言って、夫をぶつ真似《まね》をして、さっと蚊帳から出て、私の部屋の蚊帳にはいり、長男と次女のあいだに「小」の字の形になって寝るのでした。
でも、私は、それだけでも夫に甘えて、話をして笑い合う事が出来たのがうれしく、胸のしこりも、少し溶けたような気持で、その夜は、久しぶりに朝まで寝ぐるしい思いをせずにとろとろと眠れました。
これからは、何でもこの調子で、軽く夫に甘えて、冗談を言い、ごまかしだって何だってかまわない、正しい態度で無くったってかまわない、そんな、道徳なんてどうだっていい、ただ少しでも、しばらくでも、気持の楽な生き方をしたい、一時間でも二時間でもたのしかったらそれでいいのだ、という考えに変って、夫をつねったりして、家の中に高い笑い声もしばしば起るようになった矢先、或《あ》る朝だしぬけに夫は、温泉に行きたいと言い出しました。
「頭がいたくてね、暑気《しょき》に負けたのだろう。信州のあの温泉、あのちかくには知ってる人もいるし、いつでもおいで、お米持参の心配はいらない、とその人が言っているんだ。二、三週間、静養して来たい。このままだと、僕は、気が狂いそうだ。とにかく、東京から逃げたいんだ。」
そのひとから逃げたくなって、旅に出るのかしら、とふと私は考えました。
「お留守《るす》のあいだに、ピストル強盗がはいったら、どうしよう。」
と私は笑いながら、(ああ、悲しいひとたちは、よく笑う)そう言いますと、
「強盗に申し上げたらいいさ、あたしの亭主は気違いですよ、って。ピストル強盗も、気違いには、かなわないだろう。」
旅に反対する理由もありませんでしたので、私は夫のよそゆきの麻《あさ》の夏服を押入《おしいれ》から取り出そうとして、あちこち捜しましたが、見当りませんでした。
私は青白くなった気持で、
「無いわ。どうしたのでしょう。空巣《あきす》にはいられたのかしら。」
「売ったんだ。」
夫は泣きべそに似た笑い顔をつくって、そう言いました。
私は、ぎょっとしましたが、しいて平気を装《よそお》って、
「まあ、素早い。」
「そこが、ピストル強盗よりも凄《すご》いところさ。」
その女のひとのために、内緒《ないしょ》でお金の要る事があったのに違いないと私は思いました。
「それじゃ、何を着ていらっしゃるの?」
「開襟《かいきん》シャツ一枚でいいよ。」
朝に言い出し、お昼にはもう出発ということになりました。一刻も早く、家から出て行きたい様子でしたが、炎天つづきの東京にめずらしくその日、俄雨《にわかあめ》があり、夫は、リュックを背負い靴をはいて、玄関の式台に腰を
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