ったら、いじらしさに胸が一ぱいになり、とても洗濯をつづける事が出来なくて、立って私も夫の後を追って家へはいり、
「暑かったでしょう? はだかになったら? けさ、お盆の特配で、ビイルが二本配給になったの。ひやして置きましたけど、お飲みになりますか?」
夫はおどおどして気弱く笑い、
「そいつは、凄《すご》いね。」
と声さえかすれて、
「お母さんと一本ずつ飲みましょうか。」
見え透いた、下手《へた》なお世辞みたいな事まで言うのでした。
「お相手をしますわ。」
私の死んだ父が大酒家で、そのせいか私は、夫よりもお酒が強いくらいなのです。結婚したばかりの頃、夫と二人で新宿を歩いて、おでんやなどにはいり、お酒を飲んでも、夫はすぐ真赤になってだめになりますが、私は一向になんとも無く、ただすこし、どういうわけか耳鳴りみたいなものを感ずるだけでした。
三畳間で、子供たちは、ごはん、夫は、はだかで、そうして濡《ぬ》れ手拭《てぬぐ》いを肩にかぶせて、ビイル、私はコップ一ぱいだけ附合わせていただいて、あとはもったいないので遠慮して、次女のトシ子を抱いておっぱいをやり、うわべは平和な一家|団欒《だんらん》の図でしたが、やはり気まずく、夫は私の視線を避けてばかりいますし、また私も、夫の痛いところにさわらないよう話題を細心に選択しなければならず、どうしても話がはずみません。長女のマサ子も、長男の義太郎も、何か両親のそんな気持のこだわりを敏感に察するものらしく、ひどくおとなしく代用食の蒸《むし》パンをズルチンの紅茶にひたしてたべています。
「昼の酒は、酔うねえ。」
「あら、ほんとう、からだじゅう、まっかですわ。」
その時ちらと、私は、見ました。夫の顎《あご》の下に、むらさき色の蛾《が》が一匹へばりついていて、いいえ、蛾ではありません、結婚したばかりの頃、私にも、その、覚えがあったので、蛾の形のあざをちらと見て、はっとして、と同時に夫も、私に気づかれたのを知ったらしく、どぎまぎして、肩にかけている濡れ手拭いの端で、そのかまれた跡を不器用におおいかくし、はじめからその蛾の形をごまかすために濡れ手拭いなど肩にかけていたのだという事もわかりましたが、しかし、私はなんにも気附かぬふりを仕様と、ずいぶん努力して、
「マサ子も、お父さまとご一緒だと、パンパがおいしいようね。」
と冗談めかして言ってみましたが、何だかそれも夫への皮肉みたいに響いて、かえってへんに白々しくなり、私の苦しさも極度に達して来た時、突然、お隣りのラジオがフランスの国歌をはじめまして、夫はそれに耳を傾け、
「ああ、そうか、きょうは巴里祭《パリさい》だ。」
とひとりごとのようにおっしゃって、幽《かす》かに笑い、それから、マサ子と私に半々に言い聞かせるように、
「七月十四日、この日はね、革命、……」
と言いかけて、ふっと言葉がとぎれて、見ると、夫は口をゆがめ、眼に涙が光って、泣きたいのをこらえている顔でした。それから、ほとんど涙声になって、
「バスチーユのね、牢獄を攻撃してね、民衆がね、あちらからもこちらからも立ち上って、それ以来、フランスの、春こうろうの花の宴が永遠に、永遠にだよ、永遠に失われる事になったのだけどね、でも、破壊しなければいけなかったんだ、永遠に新秩序の、新道徳の再建が出来ない事がわかっていながらも、それでも、破壊しなければいけなかったんだ、革命いまだ成らず、と孫文《そんぶん》が言って死んだそうだけれども、革命の完成というものは、永遠に出来ない事かも知れない、しかし、それでも革命を起さなければいけないんだ、革命の本質というものはそんな具合いに、かなしくて、美しいものなんだ、そんな事をしたって何になると言ったって、そのかなしさと、美しさと、それから、愛、……」
フランスの国歌は、なおつづき、夫は話しながら泣いてしまって、それから、てれくさそうに、無理にふふんと笑って見せて、
「こりゃ、どうも、お父さんは泣き上戸《じょうご》らしいぞ。」
と言い、顔をそむけて立ち、お勝手へ行って水で顔を洗いながら、
「どうも、いかん。酔いすぎた。フランス革命で泣いちゃった。すこし寝るよ。」
とおっしゃって、六畳間へ行き、それっきりひっそりとなってしまいましたが、身をもんで忍び泣いているに違いございません。
夫は、革命のために泣いたのではありません。いいえ、でも、フランスに於《お》ける革命は、家庭に於ける恋と、よく似ているのかも知れません。かなしくて美しいものの為に、フランスのロマンチックな王朝をも、また平和な家庭をも、破壊しなければならないつらさ、その夫のつらさは、よくわかるけれども、しかし、私だって夫に恋をしているのだ、あの、昔の紙治《かみじ》のおさんではないけれども、
女房のふとこ
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