《つぶや》くのを聞いて、いじらしさに、つい涙ぐみ、
「どれどれ、あら、ほんとう。いまに、お豆がたくさん生《な》るわよ。」
 玄関のわきに、十|坪《つぼ》くらいの畑地があって、以前は私がそこへいろいろ野菜を植えていたのだけれども、子供が三人になって、とても畑のほうにまで手がまわらず、また夫も、昔は私の畑仕事にときどき手伝って下さったものなのに、ちか頃はてんで、うちの事にかまわず、お隣りの畑などは旦那《だんな》さまがきれいに手入れなさって、さまざまのお野菜がたくさん見事に出来ていて、うちの畑はそれに較《くら》べるとはかなく恥かしくただ雑草ばかり生えしげって、マサ子が配給のお豆を一粒、土にうずめて水をかけ、それがひょいと芽を出して、おもちゃも何も持っていないマサ子にとって、それが唯一のご自慢の財産で、お隣りへ遊びに行っても、うちのお豆、うちのお豆、とはにかまずに吹聴《ふいちょう》している様子なのです。
 おちぶれ。わびしさ。いいえ、それはもう、いまの日本では、私たちに限った事でなく、殊《こと》にこの東京に住んでいる人たちは、どちらを見ても、元気が無くおちぶれた感じで、ひどく大儀そうにのろのろと動き廻っていて、私たちも持物全部を焼いてしまって、事毎《ことごと》に身のおちぶれを感ずるけれども、しかし、いま苦しいのは、そんな事よりも、さらにさし迫った、この世のひとの妻として、何よりもつらい或《あ》る事なのです。
 私の夫は、神田の、かなり有名な或る雑誌社に十年ちかく勤めていました。そうして八年前に私と、平凡な見合い結婚をして、もうその頃から既にそろそろ東京では貸家が少くなり、中央線に沿った郊外の、しかも畑の中の一軒家みたいな、この小さい貸家をやっと捜し当て、それから大戦争まで、ずっとここに住んでいたのです。
 夫はからだが弱いので、召集からも徴用からものがれ、無事に毎日、雑誌社に通勤していたのですが、戦争がはげしくなって、私たちの住んでいるこの郊外の町に、飛行機の製作工場などがあるおかげで、家のすぐ近くにもひんぴんと爆弾が降って来て、とうとう或る夜、裏の竹藪《たけやぶ》に一弾が落ちて、そのためにお勝手とお便所と三畳間が滅茶々々になり、とても親子四人(その頃はマサ子の他に、長男の義太郎も生れていました)その半壊の家に住みつづける事が出来なくなりましたので、私と二人の子供は、私の里
前へ 次へ
全12ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング