盲目である。
 重ねて言う。井伏さんは旅の名人である。目立たない旅をする。旅の服装も、お粗末である。
 いつか、井伏さんが釣竿をかついで、南伊豆の或る旅館に行き、そこの女将《おかみ》から、
「お部屋は一つしか空いて居りませんが、それは、きょう、東京から井伏先生という方がおいでになるから、よろしく頼むと或る人からお電話でしたからすみませんけど。」
 と断わられたことがある。その南伊豆の温泉に達するには、東京から五時間ちかくかかるようだったが、井伏さんは女将にそう言われて、ただ、
「はあ。」
 とおっしゃっただけで、またも釣竿をかつぎ、そのまま真直に東京の荻窪のお宅に帰られたことがある。
 なかなか出来ないことである。いや、私などには、一生、どんなに所謂「修行」をしても出来っこない。
 不敗。井伏さんのそのような態度にこそ、不敗の因子が宿っているのではあるまいか。
 井伏さんと旅行。このテーマについては、私はもっともっと書きたく、誘惑せられる。
 次々と思い出が蘇《よみが》える。井伏さんは時々おっしゃる。
「人間は、一緒に旅行をすると、その旅の道連れの本性がよくわかる。」
 旅は、徒然《つれづれ》の姿に似て居ながら、人間の決戦場かも知れない。
 この巻の井伏さんの、ゆるやかな旅行見聞記みたいな作品をお読みになりながら、以上の私の注進も、読者はその胸のどこかの片隅に湛《たた》えておいて頂けたら、うれしい。
 井伏さんと私と一緒に旅行したことのさまざまの思い出は、また、のちの巻の後記に書くことがあるだろうと思われる。



底本:「もの思う葦」新潮文庫、新潮社
   1980(昭和55)年9月25日発行
   1998(平成10)年10月15日39刷
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を「阿佐ヶ谷」以外は、大振りにつくっています。
入力:蒋龍
校正:今井忠夫
2004年6月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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