の農夫でもその詩の一首や二首は知っている。現代イラン人の書いた文学史にはオマルの名は八大詩人の中に数え上げられている。それにもかかわらず、彼の詩に盛られた思想が、狂信的なイスラム教(回教)と相容《あいい》れないばかりか、これを冒涜《ぼうとく》する性質さえ持っていたために、ペルシアにおけるイスラム教勢力が衰えた最近代にいたるまでは、文学史上でハイヤームの詩人的才能を讃《たた》えた例はなかったもので、したがってヨーロッパのペルシア学者も、フィツジェラルドや彼にオマルを推称した友人の東洋学者以前には、あまり『ルバイヤート』に注意を払わなかった。そういうわけで、一八三二年に死んだゲーテとしてはフィツジェラルドの翻訳(一八五九年出版)に接する機会はもちろんなかったし、またそれ以前のドイツ語訳によってハイヤームを知るという機会もなかった。彼はまさに「私などよりは遙かに傑れた人々がたくさんいるのにちがいない」と予期したとおり、最も傑れた詩人の一人を逸したわけである。
 自ら挙げた七人のペルシア詩人中の一人で、十四世紀に生きていたハーフェズのペシミズム溢れる抒情詩から、ゲーテは多大の影響を受けたと言わ
前へ 次へ
全43ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小川 亮作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング