二六)に似たところがあるように思われる。今日われらの知っているとおりの禅の教理は南方禅(南方シナに勢力があったことからそういわれる)の開山シナの第六祖|慧能《えのう》(六三七―七一三)が始めて説いたに違いない。慧能の後、ほどなく馬祖《ばそ》大師(七八八滅)これを継いで禅を中国人の生活における一活動勢力に作りあげた。馬祖の弟子《でし》百丈《ひゃくじょう》(七一九―八一四)は禅宗|叢林《そうりん》を開創し、禅林清規《ぜんりんしんぎ》を制定した。馬祖の時代以後の禅宗の問答を見ると、揚子江岸《ようすこうがん》精神の影響をこうむって、昔のインド理想主義とはきわ立って違ったシナ固有の考え方を増していることがわかる。いかほど宗派的精神の誇りが強くて、そうではないといったところで、南方禅が老子や清談家の教えに似ていることを感じないわけにはいかない。道徳経の中にすでに精神集中の重要なことや気息を適当に調節することを述べている――これは禅定に入るに必要欠くべからざる要件である。道徳経の良注釈の或《あ》るものは禅学者によって書かれたものである。
禅道は道教と同じく相対を崇拝するものである。ある禅師は禅を定義して南天に北極星を識《し》るの術といっている。真理は反対なものを会得することによってのみ達せられる。さらに禅道は道教と同じく個性主義を強く唱道した。われらみずからの精神の働きに関係しないものはいっさい実在ではない。六祖|慧能《えのう》かつて二僧が風に翻る塔上の幡《ばん》を見て対論するのを見た。「一はいわく幡動くと。一はいわく風動くと。」しかし、慧能は彼らに説明して言った、これ風の動くにあらずまた幡《ばん》の動くにもあらずただ彼らみずからの心中のある物の動くなりと。百丈が一人の弟子と森の中を歩いていると一匹の兎《うさぎ》が彼らの近寄ったのを知って疾走し去った。「なぜ兎はおまえから逃げ去ったのか。」と百丈が尋ねると、「私を恐れてでしょう。」と答えた。祖師は言った、「そうではない、おまえに残忍性があるからだ。」と。この対話は道教の徒荘子の話を思い起させる。ある日荘子友と濠梁《ごうりょう》のほとりに遊んだ。荘子いわく「※[#「條」の「木」に代えて「黨−尚」、第3水準1−14−46]魚《じょうぎょ》いで遊びて従容《しょうよう》たり。これ魚の楽しむなり。」と。その友彼に答えていわく「子《し》は魚にあらず。いずくんぞ魚の楽しきを知らん。」と。「子は我れにあらず、いずくんぞわが魚の楽しきを知らざるを知らん。」と荘子は答えた。
禅は正統の仏道の教えとしばしば相反した、ちょうど道教が儒教と相反したように。禅門の徒の先験的|洞察《どうさつ》に対しては言語はただ思想の妨害となるものであった。仏典のあらん限りの力をもってしてもただ個人的思索の注釈に過ぎないのである。禅門の徒は事物の内面的精神と直接交通しようと志し、その外面的の付属物はただ真理に到達する阻害と見なした。この絶対を愛する精神こそは禅門の徒をして古典仏教派の精巧な彩色画よりも墨絵の略画を選ばしめるに至ったのである。禅学徒の中には、偶像や象徴によらないでおのれの中に仏陀《ぶっだ》を認めようと努めた結果、偶像破壊主義者になったものさえある。丹霞和尚《たんかおしょう》は大寒の日に木仏を取ってこれを焚《た》いたという話がある。かたわらにいた人は非常に恐れて言った、「なんとまあもったいない!」と。和尚は落ち着き払って答えた、「わしは仏様を焼いて、お前さんたちのありがたがっているお舎利《しゃり》を取るのだ。」「木仏の頭からお舎利が出てたまるものですか。」とつっけんどんな受け答えに、丹霞和尚がこたえて言った、「もし、お舎利の出ない仏様なら、何ももったいないことはないではないか。」そう言って振り向いてたき火にからだをあたためた。
禅の東洋思想に対する特殊な寄与は、この現世の事をも後生《ごしょう》のことと同じように重く認めたことである。禅の主張によれば、事物の大相対性から見れば大と小との区別はなく、一原子の中にも大宇宙と等しい可能性がある。極致を求めんとする者はおのれみずからの生活の中に霊光の反映を発見しなければならぬ。禅林の組織はこういう見地から非常に意味深いものであった。祖師を除いて禅僧はことごとく禅林の世話に関する何か特別の仕事を課せられた。そして妙なことには新参者には比較的軽い務めを与えられたが、非常に立派な修行を積んだ僧には比較的うるさい下賤《げせん》な仕事が課せられた。こういう勤めが禅修行の一部をなしたものであって、いかなる些細《ささい》な行動も絶対完全に行なわなければならないのであった。こういうふうにして、庭の草をむしりながらでも、蕪菁《かぶら》を切りながらでも、またはお茶をくみながらでも、いくつもいくつも重要な論議が次から次へと行なわれた。茶道いっさいの理想は、人生の些事《さじ》の中にでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たものである。道教は審美的理想の基礎を与え禅はこれを実際的なものとした。
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第四章 茶室
石造や煉瓦《れんが》造り建築の伝統によって育てられた欧州建築家の目には、木材や竹を用いるわが日本式建築法は建築としての部類に入れる価値はほとんどないように思われる。ある相当立派な西洋建築の研究家がわが国の大社寺の実に完備していることを認め、これを称揚したのは全くほんの最近のことである。わが国で一流の建築についてこういう事情であるから、西洋とは全く趣を異にする茶室の微妙な美しさ、その建築の原理および装飾が門外漢に充分にわかろうとはまず予期できないことである。
茶室(数寄屋《すきや》)は単なる小家で、それ以外のものをてらうものではない、いわゆる茅屋《ぼうおく》に過ぎない。数寄屋の原義は「好き家」である。後になっていろいろな宗匠が茶室に対するそれぞれの考えに従っていろいろな漢字を置き換えた、そして数寄屋という語は「空《す》き家」または「数奇家」の意味にもなる。それは詩趣を宿すための仮りの住み家であるからには「好き家」である。さしあたって、ある美的必要を満たすためにおく物のほかは、いっさいの装飾を欠くからには「空《す》き家」である。それは「不完全崇拝」にささげられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させるからには「数奇家」である。茶道の理想は十六世紀以来わが建築術に非常な影響を及ぼしたので、今日、日本の普通の家屋の内部はその装飾の配合が極端に簡素なため、外国人にはほとんど没趣味なものに見える。
始めて独立した茶室を建てたのは千宗易《せんのそうえき》、すなわち後に利休《りきゅう》という名で普通に知られている大宗匠で、彼は十六世紀|太閤秀吉《たいこうひでよし》の愛顧をこうむり、茶の湯の儀式を定めてこれを完成の域に達せしめた。茶室の広さはその以前に十五世紀の有名な宗匠|紹鴎《じょうおう》によって定められていた。初期の茶室はただ普通の客間の一部分を茶の会のために屏風《びょうぶ》で仕切ったものであった。その仕切った部分は「かこい」と呼ばれた。その名は、家の中に作られていて独立した建物ではない茶室へ今もなお用いられている。数寄屋は、「グレイスの神よりは多く、ミューズの神よりは少ない。」という句を思い出させるような五人しかはいれないしくみの茶室本部と、茶器を持ち込む前に洗ってそろえておく控えの間(水屋《みずや》)と、客が茶室へはいれと呼ばれるまで待っている玄関(待合《まちあい》)と、待合と茶室を連絡している庭の小道(露地《ろじ》)とから成っている。茶室は見たところなんの印象も与えない。それは日本のいちばん狭い家よりも狭い。それにその建築に用いられている材料は、清貧を思わせるようにできている。しかしこれはすべて深遠な芸術的思慮の結果であって、細部に至るまで、立派な宮殿寺院を建てるに費やす以上の周到な注意をもって細工が施されているということを忘れてはならない。よい茶室は普通の邸宅以上に費用がかかる、というのはその細工はもちろんその材料の選択に多大の注意と綿密を要するから。実際茶人に用いられる大工は、職人の中でも特殊な、非常に立派な部類を成している。彼らの仕事は漆器家具匠の仕事にも劣らぬ精巧なものであるから。
茶室はただに西洋のいずれの建築物とも異なるのみならず、日本そのものの古代建築とも著しい対照をなしている。わが国古代の立派な建築物は宗教に関係あるものもないものも、その大きさだけから言っても侮りがたいものであった。数世紀の間不幸な火災を免れて来たわずかの建築物は、今なおその装飾の壮大華麗によって、人に畏敬《いけい》の念をおこさせる力がある。直径二尺から三尺、高さ三十尺から四十尺の巨柱は、複雑な腕木《うでぎ》の網状細工によって、斜めの瓦屋根《かわらやね》の重みにうなっている巨大な梁《はり》をささえていた。建築の材料や方法は、火に対しては弱いけれども地震には強いということがわかった。そしてわが国の気候によく適していた。法隆寺《ほうりゅうじ》の金堂《こんどう》や薬師寺《やくしじ》の塔は木造建築の耐久性を示す注目すべき実例である。これらの建物は十二世紀の間事実上そのまま保全せられていた。古い宮殿や寺の内部は惜しげもなく装飾を施されていた。十世紀にできた宇治《うじ》の鳳凰堂《ほうおうどう》には今もなお昔の壁画彫刻の遺物はもとより、丹精《たんせい》をこらした天蓋《てんがい》、金を蒔《ま》き鏡や真珠をちりばめた廟蓋《びょうがい》を見ることができる。後になって、日光や京都二条の城においては、アラビア式またはムーア式華麗をつくした力作にも等しいような色彩の美や精巧をきわめたたくさんの装飾のために、建築構造の美が犠牲にせられているのを見る。
茶室の簡素清浄は禅院の競いからおこったものである。禅院は他の宗派のものと異なってただ僧の住所として作られている。その会堂は礼拝巡礼の場所ではなくて、禅修行者が会合して討論し黙想する道場である。その室は、中央の壁の凹所《おうしょ》、仏壇の後ろに禅宗の開祖|菩提達磨《ぼだいだるま》の像か、または祖師|迦葉《かしょう》と阿難陀《あなんだ》をしたがえた釈迦牟尼《しゃかむに》の像があるのを除いてはなんの飾りもない。仏壇には、これら聖者の禅に対する貢献を記念して香華《こうげ》がささげてある。茶の湯の基をなしたものはほかではない、菩提達磨の像の前で同じ碗《わん》から次々に茶を喫《の》むという禅僧たちの始めた儀式であったということはすでに述べたところである。が、さらにここに付言してよかろうと思われることは禅院の仏壇は、床の間――絵や花を置いて客を教化する日本間の上座――の原型であったということである。
わが国の偉い茶人は皆禅を修めた人であった。そして禅の精神を現実生活の中へ入れようと企てた。こういうわけで茶室は茶の湯の他の設備と同様に禅の教義を多く反映している。正統の茶室の広さは四畳半で維摩《ゆいま》の経文《きょうもん》の一節によって定められている。その興味ある著作において、馥柯羅摩訶秩多《びからまかちった》(二七)は文珠師利菩薩《もんじゅしりぼさつ》と八万四千の仏陀《ぶっだ》の弟子《でし》をこの狭い室に迎えている。これすなわち真に覚《さと》った者には一切皆空《いっさいかいくう》という理論に基づくたとえ話である。さらに待合から茶室に通ずる露地は黙想の第一階段、すなわち自己照明に達する通路を意味していた。露地は外界との関係を断って、茶室そのものにおいて美的趣味を充分に味わう助けとなるように、新しい感情を起こすためのものであった。この庭径を踏んだことのある人は、常緑樹の薄明に、下には松葉の散りしくところを、調和ある不ぞろいな庭石の上を渡って、苔《こけ》むした石燈籠《いしどうろう》のかたわらを過ぎる時、わが心のいかに高められたかを必ず思い出すであろう。たとえ都市のまん中にいてもなお、あたかも文明の雑踏や塵《ちり》を離れた森の中にいるような感がする。こう
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