四)。彼の説によれば、茶の葉の質の最良なものは必ず次のようなものである。
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胡人《こじん》の※[#「革+華」、第4水準2−92−10]《かわぐつ》のごとくなる者|蹙縮然《しゅくしゅくぜん》たり(五) ※[#「封/牛」、第4水準2−80−24]牛《ほうぎゅう》の臆《むね》なる者|廉※[#「ころもへん+譫のつくり」、33−16]然《れんせんぜん》たり(六) 浮雲の山をいずる者輸菌然たり(七) 軽※[#「風にょう+(火/(火+火))」、第3水準1−94−8]《けいえん》の水を払う者|涵澹然《かんせんぜん》たり(八) また新治の地なる者暴雨|流潦《りゅうりょう》の経る所に遇《あ》うがごとし(九)
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 第四章はもっぱら茶器の二十四種を列挙してこれについての記述であって、風炉《ふろ》(一〇)に始まり、これらのすべての道具を入れる都籃《ちゃだんす》に終わっている。ここにもわれわれは陸羽の道教象徴主義に対する偏好を認める。これに連関して、シナの製陶術に及ぼした茶の影響を観察してみることもまた興味あることである。シナ磁器は、周知のごとく、その源は硬玉のえも言われぬ色合いを表わそうとの試みに起こり、その結果唐代には、南部の青磁と北部の白磁を生じた。陸羽は青色を茶碗《ちゃわん》に理想的な色と考えた、青色は茶の緑色を増すが白色は茶を淡紅色にしてまずそうにするから。それは彼が団茶を用いたからであった。その後|宋《そう》の茶人らが粉茶を用いるに至って、彼らは濃藍色《のうらんしょく》および黒褐色《こくかっしょく》の重い茶碗を好んだ。明人《みんじん》は淹茶《だしちゃ》を用い、軽い白磁を喜んだ。
 第五章において陸羽は茶のたて方について述べている。彼は塩以外の混合物を取り除いている。彼はまた、これまで大いに論ぜられていた水の選択、煮沸の程度の問題についても詳述している。彼の説によると、その水、山水を用うるは上《じょう》、江水は中、井水は下である。煮沸に三段ある。その沸、魚目(一一)のごとく、すこし声あるを一沸となし、縁辺の涌泉蓮珠《ゆうせんれんしゅ》(一二)のごとくなるを二沸となし、騰波鼓浪《とうはころう》(一三)を三沸となしている。団茶はこれをあぶって嬰児《えいじ》の臂《ひじ》のごとく柔らかにし、紙袋を用いてこれをたくわう。初沸にはすなわち、水量に合わせてこれをととのうるに塩味をもってし、第二沸に茶を入れる。第三沸には少量の冷水を※[#「金+腹のつくり」、第4水準2−91−15]《かま》に注ぎ、茶を静めてその「華(一四)」を育《やしな》う。それからこれを茶碗に注いで飲むのである。これまさに神酒! 晴天|爽朗《そうろう》なるに浮雲鱗然《ふうんりんぜん》たるあるがごとし(一五)。その沫《あわ》は緑銭の水渭《すいい》に浮かべるがごとし(一六)。唐の詩人|盧同《ろどう》の歌ったのはこのような立派な茶のことである。
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一|椀《わん》喉吻《こうふん》潤い、二椀|孤悶《こもん》を破る。三椀枯腸をさぐる。惟《おも》う文字五千巻有り。四椀軽汗を発す。平生不平の事ことごとく毛孔に向かって散ず。五椀|肌骨《きこつ》清し。六椀|仙霊《せんれい》に通ず。七椀|吃《きつ》し得ざるに也《また》ただ覚ゆ両腋《りょうえき》習々清風の生ずるを。蓬莱山《ほうらいさん》はいずくにかある 玉川子《ぎょくせんし》この清風に乗じて帰りなんと欲す(一七)。
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 茶経の残りの章は、普通の喫茶法の俗悪なこと、有名な茶人の簡単な実録、有名な茶園、あらゆる変わった茶器、および茶道具のさし絵が書いてある。最後の章は不幸にも欠けている。
 茶経が世に出て、当時かなりの評判になったに違いない。陸羽は代宗《だいそう》(七六三―七七九)の援《たす》くるところとなり、彼の名声はあがって多くの門弟が集まって来た。通人の中には、陸羽のたてた茶と、その弟子《でし》のたてた茶を飲み分けることができる者もいたということである。ある官人はこの名人のたてた茶の味がわからなかったために、その名を不朽に伝えている。
 宋代《そうだい》には抹茶《ひきちゃ》が流行するようになって茶の第二の流派を生じた。茶の葉は小さな臼《うす》で挽《ひ》いて細粉とし、その調製品を湯に入れて割り竹製の精巧な小箒《こぼうき》でまぜるのであった。この新しい方法が起こったために、陸羽が茶の葉の選択法はもちろん、茶のたて方にも多少の変化を起こすに至って、塩は永久にすてられた。宋人の茶に対する熱狂はとどまるところを知らなかった。食道楽の人は互いに競うて新しい変わった方法を発見しようとした、そしてその優劣を決するために定時の競技が行なわれた。徽宗《きそう》皇帝(一一〇一―一一二四)はあまりに偉い芸術家であって行ないよろしきにかなった王とはいえないが、茶の珍種を得んためにその財宝を惜しげもなく費やした。王みずから茶の二十四種についての論を書いて、そのうち、「白茶」を最も珍しい良質のものであるといって重んじている。
 宋人の茶に対する理想は唐人とは異なっていた、ちょうどその人生観が違っていたように。宋人は、先祖が象徴をもって表わそうとした事を写実的に表わそうと努めた。新儒教の心には、宇宙の法則はこの現象世界に映らなかったが、この現象世界がすなわち宇宙の法則そのものであった。永劫《えいごう》はこれただ瞬時――涅槃《ねはん》はつねに掌握のうち、不朽は永遠の変化に存すという道教の考えが彼らのあらゆる考え方にしみ込んでいた。興味あるところはその過程にあって行為ではなかった。真に肝要なるは完成することであって完成ではなかった。かくのごとくして人は直ちに天に直面するようになった。新しい意味は次第に生の術にはいって来た。茶は風流な遊びではなくなって、自性了解《じしょうりょうげ》の一つの方法となって来た。王元之《おうげんし》は茶を称揚して、直言のごとく霊をあふらせ、その爽快《そうかい》な苦味は善言の余馨《よけい》を思わせると言った。蘇東坡《そとうば》は茶の清浄|無垢《むく》な力について、真に有徳の君子のごとく汚《けが》すことができないと書いている。仏教徒の間では、道教の教義を多く交じえた南方の禅宗が苦心|丹精《たんせい》の茶の儀式を組み立てた。僧らは菩提達磨《ぼだいだるま》の像の前に集まって、ただ一個の碗《わん》から聖餐《せいさん》のようにすこぶる儀式張って茶を飲むのであった。この禅の儀式こそはついに発達して十五世紀における日本の茶の湯となった。
 不幸にして十三世紀|蒙古《もうこ》種族の突如として起こるにあい、元朝《げんちょう》の暴政によってシナはついに劫掠《こうりゃく》征服せられ、宋代《そうだい》文化の所産はことごとく破壊せらるるに至った。十七世紀の中葉に国家再興を企ててシナ本国から起こった明朝《みんちょう》は内紛のために悩まされ、次いで十八世紀、シナはふたたび北狄《ほくてき》満州人の支配するところとなった。風俗習慣は変じて昔日の面影もなくなった。粉茶は全く忘れられている。明の一|訓詁学者《くんこがくしゃ》は宋代典籍の一にあげてある茶筅《ちゃせん》の形状を思い起こすに苦しんでいる。現今の茶は葉を碗《わん》に入れて湯に浸して飲むのである。西洋の諸国が古い喫茶法を知らない理由は、ヨーロッパ人は明朝の末期に茶を知ったばかりであるという事実によって説明ができるのである。
 後世のシナ人には、茶は美味な飲料ではあるが理想的なものではない。かの国の長い災禍は人生の意義に対する彼の強い興味を奪ってしまった。彼は現代的になった、すなわち老いて夢よりさめた。彼は詩人や古人の永遠の若さと元気を構成する幻影に対する崇高な信念を失ってしまった。彼は折衷家となって宇宙の因襲を静かに信じてこんなものだと悟っている。天をもてあそぶけれども、へりくだって天を征服しまたはこれを崇拝することはしない。彼の葉茶は花のごとき芳香を放ってしばしば驚嘆すべきものがあるが、唐宋《とうそう》時代の茶の湯のロマンスは彼の茶|碗《わん》には見ることができない。
 日本はシナ文化の先蹤《せんしょう》を追うて来たのであるから、この茶の三時期をことごとく知っている。早くも七二九年|聖武《しょうむ》天皇|奈良《なら》の御殿において百僧に茶を賜うと書物に見えている。茶の葉はたぶん遣唐使によって輸入せられ、当時流行のたて方でたてられたものであろう。八〇一年には僧|最澄《さいちょう》茶の種を携え帰って叡山《えいざん》にこれを植えた。その後年を経るにしたがって貴族|僧侶《そうりょ》の愛好飲料となったのはいうまでもなく、茶園もたくさんできたということである。宋の茶は一一九一年、南方の禅を研究するために渡っていた栄西《えいさい》禅師の帰国とともにわが国に伝わって来た。彼の持ち帰った新種は首尾よく三か所に植え付けられ、その一か所京都に近い宇治《うじ》は、今なお世にもまれなる名茶産地の名をとどめている。南宋の禅は驚くべき迅速をもって伝播《でんぱ》し、これとともに宋の茶の儀式および茶の理想も広まって行った。十五世紀のころには将軍|足利義政《あしかがよしまさ》の奨励するところとなり、茶の湯は全く確立して、独立した世俗のことになった。爾来《じらい》茶道はわが国に全く動かすべからざるものとなっている。後世のシナの煎茶《せんちゃ》は、十七世紀中葉以後わが国に知られたばかりであるから、比較的最近に使用し始めたものである。日常の使用には煎茶が粉茶に取って代わるに至った、といっても粉茶は今なお茶の中の茶としてその地歩を占めてはいるが。
 日本の茶の湯においてこそ始めて茶の理想の極点を見ることができるのである。一二八一年|蒙古《もうこ》襲来に当たってわが国は首尾よくこれを撃退したために、シナ本国においては蛮族侵入のため不幸に断たれた宋の文化運動をわれわれは続行することができた。茶はわれわれにあっては飲む形式の理想化より以上のものとなった、今や茶は生の術に関する宗教である。茶は純粋と都雅を崇拝すること、すなわち主客協力して、このおりにこの浮世の姿から無上の幸福を作り出す神聖な儀式を行なう口実となった。茶室は寂寞《せきばく》たる人世の荒野における沃地《よくち》であった。疲れた旅人はここに会して芸術鑑賞という共同の泉から渇《かわき》をいやすことができた。茶の湯は、茶、花卉《かき》、絵画等を主題に仕組まれた即興劇であった。茶室の調子を破る一点の色もなく、物のリズムをそこなうそよとの音もなく、調和を乱す一指の動きもなく、四囲の統一を破る一言も発せず、すべての行動を単純に自然に行なう――こういうのがすなわち茶の湯の目的であった。そしていかにも不思議なことには、それがしばしば成功したのであった。そのすべての背後には微妙な哲理が潜んでいた。茶道は道教の仮りの姿であった。
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     第三章 道教と禅道

 茶と禅との関係は世間周知のことである。茶の湯は禅の儀式の発達したものであるということはすでに述べたところであるが、道教の始祖老子の名もまた茶の沿革と密接な関係がある。風俗習慣の起源に関するシナの教科書に、客に茶を供するの礼は老子の高弟|関尹《かんいん》(一八)に始まり、函谷関《かんこくかん》で「老哲人」にまず一|碗《わん》の金色の仙薬《せんやく》をささげたと書いてある。道教の徒がつとにこの飲料を用いたことを確証するようないろいろな話の真偽をゆっくりと詮議《せんぎ》するのも価値あることではあるが、それはさておきここでいう道教と禅道とに対する興味は、主としていわゆる茶道として実際に現われている、人生と芸術に関するそれらの思想に存するのである。
 遺憾ながら、道教徒と禅の教義とに関して、外国語で充分に表わされているものは今のところ少しもないように思われる。立派な試みはいくつかあったが(一九)。
 翻訳は常に叛逆《はんぎゃく》であって、明朝《みんちょう》の一作家の言のごとく、よくいっ
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