るところに現われている。義だ! 貞節だ! などというが、真善の小売りをして悦《えつ》に入っている販売人を見よ。人はいわゆる宗教さえもあがなうことができる。それは実のところたかの知れた倫理学を花や音楽で清めたもの。教会からその付属物を取り去ってみよ、あとに何が残るか。しかしトラスト(二〇)は不思議なほど繁盛する、値段が途方もなく安いから――天国へ行く切符代の御祈祷《ごきとう》も、立派な公民の免許状も。めいめい速く能を隠すがよい。もしほんとうに重宝だと世間へ知れたならば、すぐに競売に出されて最高入札者の手に落とされよう。男も女も何ゆえにかほど自己を広告したいのか。奴隷制度の昔に起源する一種の本能に過ぎないのではないか。
道教思想の雄渾《ゆうこん》なところは、その後続いて起こった種々の運動を支配したその力にも見られるが、それに劣らず、同時代の思想を切り抜けたその力に存している。秦朝《しんちょう》、といえばシナという名もこれに由来しているかの統一時代であるが、その朝を通じて道教は一活動力であった。もし時の余裕があれば、道教がその時代の思想家、数学家、法律家、兵法家、神秘家、錬金術家および後の
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