たところでただ錦《にしき》の裏を見るに過ぎぬ。縦横の糸は皆あるが色彩、意匠の精妙は見られない。が、要するに容易に説明のできるところになんの大教理が存しよう。古《いにしえ》の聖人は決してその教えに系統をたてなかった。彼らは逆説をもってこれを述べた、というのは半面の真理を伝えんことを恐れたからである。彼らの始め語るや愚者のごとく終わりに聞く者をして賢ならしめた。老子みずからその奇警な言でいうに、「下士は道を聞きて大いにこれを笑う。笑わざればもって道となすに足らず。」と。「道」は文字どおりの意味は「径路」である。それは the Way(行路)、the Absolute(絶対)、the Law(法則)、Nature(自然)、Supreme Reason(至理)、the Mode(方式)、等いろいろに訳されている。こういう訳も誤りではない。というのは道教徒のこの言葉の用法は、問題にしている話題いかんによって異なっているから。老子みずからこれについて次のように言っている。
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物有り混成し、天地に先だって生ず。寂《せき》たり寥《りょう》たり。独立して改めず。周行して殆《あやう》
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