その愛もその憂《うれ》いも、幾度も繰り返してわれわれの心に生き残って行くから。われわれの心に訴えるものは、伎倆《ぎりょう》というよりは精神であり、技術というよりも人物である。呼び声が人間味のあるものであれば、それだけにわれわれの応答は衷心から出て来る。名人とわれわれの間に、この内密の黙契があればこそ詩や小説を読んで、その主人公とともに苦しみ共に喜ぶのである。わが国の沙翁《しゃおう》近松《ちかまつ》は劇作の第一原則の一つとして、見る人に作者の秘密を打ち明かす事が重要であると定めた。弟子《でし》たちの中には幾人も、脚本をさし出して彼の称賛を得ようとした者があったが、その中で彼がおもしろいと思ったのはただ一つであった。それは、ふたごの兄弟が、人違いのために苦しむという『まちがいつづき』に多少似ている脚本であった。近松が言うには、「これこそ、劇本来の精神をそなえている。というのは、これは見る人を考えに入れているから公衆が役者よりも多く知ることを許されている。公衆は誤りの因を知っていて、哀れにも、罪もなく運命の手におちて行く舞台の上の人々を哀れむ。」と。
大家は、東西両洋ともに、見る人を腹心の友とする手段として、暗示の価値を決して忘れなかった。傑作をうちながめる人たれか心に浮かぶ綿々たる無限の思いに、畏敬《いけい》の念をおこさない者があろう。傑作はすべて、いかにも親しみあり、肝胆相照らしているではないか。これにひきかえ、現代の平凡な作品はいかにも冷ややかなものではないか。前者においては、作者の心のあたたかい流露を感じ、後者においては、ただ形式的の会釈を感ずるのみである。現代人は、技術に没頭して、おのれの域を脱することはまれである。竜門《りゅうもん》の琴を、なんのかいもなくかき鳴らそうとした楽人のごとく、ただおのれを歌うのみであるから、その作品は、科学には近かろうけれども、人情を離れること遠いのである。日本の古い俚諺《りげん》に「見えはる男には惚《ほ》れられぬ。」というのがある。そのわけは、そういう男の心には、愛を注いで満たすべきすきまがないからである。芸術においてもこれと等しく、虚栄は芸術家公衆いずれにおいても同情心を害することはなはだしいものである。
芸術において、類縁の精神が合一するほど世にも神聖なものはない。その会するやたちまちにして芸術愛好者は自己を超越する。彼は存在すると同時に存在しない。彼は永劫《えいごう》を瞥見《べっけん》するけれども、目には舌なく、言葉をもってその喜びを声に表わすことはできない。彼の精神は、物質の束縛を脱して、物のリズムによって動いている。かくのごとくして芸術は宗教に近づいて人間をけだかくするものである。これによってこそ傑作は神聖なものとなるのである。昔日本人が大芸術家の作品を崇敬したことは非常なものであった。茶人たちはその秘蔵の作品を守るに、宗教的秘密をもってしたから、御神龕《ごしんかん》(絹地の包みで、その中へやわらかに包んで奥の院が納めてある)まで達するには、幾重にもある箱をすっかり開かねばならないことがしばしばあった。その作品が人目にふれることはきわめてまれで、しかも奥義を授かった人にのみ限られていた。
茶道の盛んであった時代においては、太閤《たいこう》の諸将は戦勝の褒美《ほうび》として、広大な領地を賜わるよりも、珍しい美術品を贈られることを、いっそう満足に思ったものであった。わが国で人気ある劇の中には、有名な傑作の喪失回復に基づいて書いたものが多い。たとえば、ある劇にこういう話がある。細川侯《ほそかわこう》の御殿には雪村《せっそん》の描いた有名な達磨《だるま》があったが、その御殿が、守りの侍の怠慢から火災にかかった。侍は万事を賭《と》して、この宝を救い出そうと決心して、燃える御殿に飛び入って、例の掛け物をつかんだ、が、見ればはや、火炎にさえぎられて、のがれる道はなかったのである。彼は、ただその絵のことのみを心にかけて、剣をもっておのが肉を切り開き、裂いた袖《そで》に雪村を包んで、大きく開いた傷口にこれを突っ込んだ。火事はついにしずまった。煙る余燼《よじん》の中に、半焼の死骸《しがい》があった。その中に、火の災いをこうむらないで、例の宝物は納まっていた。実に身の毛もよだつ物語であるが、これによって、信頼を受けた侍の忠節はもちろんのこと、わが国人がいかに傑作品を重んじるかということが説明される。
しかしながら、美術の価値はただそれがわれわれに語る程度によるものであることを忘れてはならない。その言葉は、もしわれわれの同情が普遍的であったならば、普遍的なものであるかもしれない。が、われわれの限定せられた性質、代々相伝の本性はもちろんのこと、慣例、因襲の力は美術鑑賞力の範囲を制限するものである。わ
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