「くさかんむり/舛」、32−9]《せん》、※[#「木+賈」、第4水準2−15−63]《か》、茗《みょう》、というようないろいろな名前で書いてあって、疲労をいやし、精神をさわやかにし、意志を強くし、視力をととのえる効能があるために大いに重んぜられた。ただに内服薬として服用せられたのみならず、しばしばリューマチの痛みを軽減するために、煉薬《れんやく》として外用薬にも用いられた。道教徒は、不死の霊薬の重要な成分たることを主張した。仏教徒は、彼らが長時間の黙想中に、睡魔予防剤として広くこれを服用した。
四五世紀のころには、揚子江《ようすこう》流域住民の愛好飲料となった。このころに至って始めて、現代用いている「茶」という表意文字が造られたのである。これは明らかに、古い「※[#「木+余」、32−15]《た》」の字の俗字であろう。南朝の詩人は「液体硬玉の泡沫《ほうまつ》」を熱烈に崇拝した跡が見えている。また帝王は、高官の者の勲功に対して上製の茶を贈与したものである。しかし、この時期における茶の飲み方はきわめて原始的なものであった。茶の葉を蒸して臼《うす》に入れてつき、団子として、米、薑《はじかみ》、塩、橘皮《きっぴ》、香料、牛乳等、時には葱《ねぎ》とともに煮るのであった。この習慣は現今チベット人および蒙古《もうこ》種族の間に行なわれていて、彼らはこれらの混合物で一種の妙なシロップを造るのである。ロシア人がレモンの切れを用いるのは――彼らはシナの隊商宿から茶を飲むことを覚えたのであるが――この古代の茶の飲み方が残っていることを示している。
茶をその粗野な状態から脱して理想の域に達せしめるには、実に唐朝の時代精神を要した。八世紀の中葉に出た陸羽《りくう》(三)をもって茶道の鼻祖とする。かれは、仏、道、儒教が互いに混淆《こんこう》せんとしている時代に生まれた。その時代の汎神論的《はんしんろんてき》象徴主義に促されて、人は特殊の物の中に万有の反映を見るようになった。詩人陸羽は、茶の湯に万有を支配しているものと同一の調和と秩序を認めた。彼はその有名な著作茶経(茶の聖典)において、茶道を組織立てたのである。爾来《じらい》彼は、シナの茶をひさぐ者の保護神としてあがめられている。
茶経は三巻十章よりなる。彼は第一章において茶の源を論じ、第二章、製茶の器具を論じ、第三章、製茶法を論じている(
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