である。
次に三味線の継ぎ棹というものは、寛政以後に出来たもので、その前は一本棹のものしかなく、傭女や老母なぞがそれを提げて、前にいったような身なりで先達すると、そのあとから裾模様の紋附ものか何かを着、帯を一つ結びのダラリと下げて、お高祖頭巾を被った芸者姿の美しいのが随いてゆく。
ところが、その風俗如何にも際立って目につくので、寛政の改革があってからは、棹を三つ継ぎにして途中は箱で持ちあるき、嵩張りもせず、表立ちもせぬようにしたので、今にこの継ぎ棹世に行わるるに至った。
ついでに言っておくが、芸者の途中を眼立たぬようにすることは、一時町芸者の流行いと盛大して、遂に遊廓の衰靡を来たしたので、時の幕府に哀訴して葭町《よしちょう》の菊弥を初め、廓外の芸者を構うて貰い、江戸市中に三人とか七人とかしかお構いなしのシャを残さなかったなぞ、随分と睨まれたものであって、一般に今日の贅は思いもよらぬことだったのだ。
底本:「残されたる江戸」中公文庫、中央公論社
1990(平成2)年6月10日発行
底本の親本:「残されたる江戸」洛陽堂
1911(明治44)年5月
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2005年5月19日作成
2005年12月11日修正
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