ばなを振り、残れるを井戸やども盃に受けて呑む。
 蓋《ふた》された井戸の側に佇んで耳傾くれば、今し晒された井戸には新たに湧き出でた清水の底に落つる音折々に聞えて、心ゆくこと限りなく、江戸ッ児はそのすがすがしき滴《したた》りの音聞くを欣びて、井戸やが縄に吾から手伝うもの多く、さらし井の気勢いは朝の屋敷町に時ならぬ賑わいを見することがある。
 さあれこの井戸がえというもの上下貴賤にけじめなく、華族様のお屋敷でも、素町人どもの裏長屋でも、同じ懸け声に同じ賑わい、井戸やが撒く清酒も塩ばなも、畢竟《ひっきょう》は水を浄めの同じしるしに過ぎずして、六根清浄、江戸ッ児はその清新をこれ愛する、清浄をこれ好む、実にかれらは詩をつくらざる気分詩人ではあるまいか。
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 箱庭と灯籠



 稗蒔の穂延びして漸く趣薄うなり行くにつれ、江戸ッ児の愛自然心は更に箱庭に馳せて、やがて尺寸の天地を新たに劃する。
 曩《さき》には専ら田園の趣味を伝えしもの、這度《このたび》は山野に則り、忽ちにして森林、忽ちにして沼池、一径尽くるところ橋ありて通じ、湖海ひろがるところ丘陵峙つの概、かれらの理想説は如此《かくのごとく》にしてものされ、かれらの自然観は如此にして説明さるるのである。
 されば縁日の露店に箱庭の人形、家、橋、船、家畜の類、実生の苗木と共に売行よく、植木職が小器用にしつらえたものより、各自に手づくりするを楽しみとし、船板の古びたるなぞで頃あいの箱をものし、半日の清閑をその造営に費やす、いと興あることどもかな。
 江戸ッ児はまた好んで歌舞伎灯籠をもつくる。
 夏の絵草紙屋に曾我の討入り、忠臣蔵、狐忠信、十種香などの切抜絵を購い来て、予め用意した遠見仕立の灯籠に書割といわず、大道具小道具すべてをお誂え向きにしつらえ、雪には綿、雨には糸とそれぞれに工夫して切抜絵をよきところに按排し、夜はこれに灯を入れて吾れ人の慰みとする。かれらの趣味は自然にも人事にも適する如く、詩を解すると共に、劇をも解し、自らその好むところに従って一場の演伎を形づくる。
 読者よ、乞う吾儕の既に語りしところに顧み、江戸ッ児の天才が如何に多趣多様なるかを攷えたまえ、そして更に、かくも普遍的なかれらの趣味が、現代に適せぬ所以なく、畢竟はその埋もれて世に認められざるがために、漸く忘れ果てられたを頷きたまえや。
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 定斎と小使銭



 江戸ッ児に定斎と小使銭とはいつもないことに言われておるが、実際江戸ッ児は定斎と小使銭を持合せたことがない。
 定斎の持合せがないのは、それだけによくこの薬を常用するがためで、凡そ腹痛下痢はさらなり、頭痛、眩暈《めまい》、何ぞというと必ず定斎を用ゆる。
 彼の炎天に青貝入りの薬箱を担ぎ、抽斗《ひきだし》の鐶の歩むたびに鳴るを呼び売りのしるしとする定斎やは、今も佐竹の原にその担い方の練習をして年々に市中をまわるもの尠からず、昔時は照りつける中を笠一つ被らず、定斎の利目はかくても霍乱《かくらん》にならぬとてそれで通したものだが、今は蝙蝠傘に定斎と記されたをさして、担いゆく男に附添うたるが、「え、定斎でござい。え、定斎でござい」と戸毎に小腰を屈めてゆく、今でも御維新前の老人ある家では必ずこれを買いもとめて、絶やさぬようと家人に注意さしておく。
 この定斎、それほどに利くか利かぬかは姑《しばら》く問題の外として、かくも江戸ッ児に調法がられるこの持薬で、三百年来事欠かなんだ吾儕の祖先をおもうと、その健康、その体力、恐らくはかれら気で気を医し、むつかしく言えば所謂精神療法の一助として、不知不識《しらずしらず》にこの定斎を用い来たったのであろう。
 故にかれらは己の病いにもこれを応用し、兼ねては人にもよく頒つがため、いつもその持合なき時が多く、小使銭に至っては宵越しさせぬというだけに、いつとても懐にあった例がないのだ。
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 青簾



 新築の二階家若葉の梢を凌いで聳え、葺きたての瓦美しと仰ぎ見る欄干のあなた、きのう今日掲げたと思わるる青簾のスラリと垂れて、その中より物の音静かに聞え初むる、なかなかに風情の深きものである。
 吾れ人の家の夏は、青簾かけそめて初めて趣致を添え、涼意自ら襟懐を滌《すす》ぐばかり。然れば五月の夜々の縁日には、早くも青簾売る店の一つならず、二つ三つと一晩の中に見かくること稀らしからず。さてそれらを購い来て軒近く掲ぐるに、古くさい九尺二間の陋屋にもどこかに見らるるふしの出で来て、都の家々一[#(ト)]時はいずれも新しくなるが嬉しい。
 人の子の綿入を袷に脱ぎかえて、更衣の新たなるを欣ぶこころは、家に青簾掲げて棲心地の改まると同じく、別けても山の手は近郊に接するほど、簾かかげて時鳥《ホトトギス》待つの楽しみもあり
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