たり、とんだ囈語《うわごと》を長々どうも失敬!
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江戸芸者と踊子
今のシャに深川芸者の粋と意気地なく、素袷に素足の伊達は競わずもあれ、せめてその気分だけでも享けついで、も一度江戸趣味を東京に復興さして見たいのが吾儕の望み。されば好い加減に引込めと大向うから呶鳴られぬ前、長えは毒と一旦筆を擱きはしたが、這度《このたび》は古きを温《たず》ねて新しきを知る、チッとばかり昔のことを言わして頂くことにした。
――さて江戸芸者の濫觴は、宝暦年中、吉原の遊女扇屋歌扇というが、年あけ後に廓内で客の酒席に侍り、琴三味線を弾きもて酔興をたすけたに因みし、それより下っては明和安永の頃からである。当時の吉原細見に、「芸者何誰外へも出し申候」とあるのに見ても、それは明らかだ。
但し、これまでの名称は踊子とて、これは寛文頃京坂に始まり、江戸では天和貞享の頃からで、その時までは白拍子、遊女などに酒興を幇《たす》けさしていたのを、やがてその踊子を用ゆるに至った、それがつまり女芸者の起りだ。
勿論芸者なる呼び名は、必ずしもこの時に始まったのでもないが、そは男女いずれにも称えられたことで、したがって踊子が今の芸者すなわちソレシャに相当するわけで、なお今一つ、現在の芸者によく類しておることは、芸一方で客の席へ出たのでなかったことだ。
元禄二年五月二十一日の町触に、この踊子の屋敷方はいうに及ばず、いずれへも出入法度たるべく取締られたのは、全く私娼を営んで、風俗を紊乱したからで、して見ると落語家のいい草じゃないが、女ならでは夜のあけぬ国だけに、いつの時世にも女で苦労することが多いのかも知れぬ。
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人情本と浮世絵
江戸芸者の詮索ついでに、それが風俗を捜ぬべく、人情本と浮世絵とから拾って見ると、為永春水の作に次の如く書いてある。
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「……上田太織の鼠の棒縞、黒の小柳に紫の山繭縞の縮緬を鯨帯とし、下着はお納戸の中形縮緬、お高祖頭巾を手に持ちて乱れし鬢の島田髷……」
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これで見ると太織だの山繭縮緬、普通の縮緬などを多く用いたらしく、色合は鼠だの紫がかったもの、お納戸色などがその好みだったらしい。
また、ソレシャ社会の驕奢を穿って、同じ人がこうも書いている。
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「……極上誂織の白七
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