中にふえるということは、ただ活版屋と紙製造所を喜ばすだけで、あまり社会に益をなさないかも知れない。ゆえにもしわれわれが文学者となることができず、またなる考えもなし、バンヤンのような思想を持っておっても、バンヤンのように綴ることができないときには、別に後世への遺物はないかという問題が起る。それは私にもたびたび起った問題であります。なるほど文学者になることは私が前に述べましたとおりヤサシイこととは思いますけれども、しかし誰でも文学者になるということは実は望むべからざることであります。たとえば、学校の先生……ある人がいうように何でも大学に入って学士の称号を取り、あるいはその上にアメリカへでも往って学校を卒業さえしてくれば、それで先生になれると思うのと同じことであります。私はたびたび聞いて感じまして、今でも心に留《と》めておりますが、私がたいへん世話になりましたアーマスト大学の教頭シーリー先生がいった言葉に「この学校で払うだけの給金を払えば学者を得ることはいくらでも得られる。地質学を研究する人、動物学を研究する人はいくらもある。地質学者、動物学者はたくさんいる。しかしながら地質学、動物学を教えることのできる人は実に少い。文学者はたくさんいる、文学を教えることのできる人は少い。それゆえにこの学校に三、四十人の教授がいるけれども、その三、四十人の教師は非常に貴《とうと》い、なぜなればこれらの人は学問を自分で知っているばかりでなく、それを教えることのできる人であります」と。これはわれわれが深く考うべきことで、われわれが学校さえ卒業すればかならず先生になれるという考えを持ってはならぬ。学校の先生になるということは一種特別の天職だと私は思っております。よい先生というものはかならずしも大学者ではない。大島君もご承知でございますが、私どもが札幌におりましたときに、クラーク先生という人が教師であって、植物学を受け持っておりました。その時分にはほかに植物学者がおりませぬから、クラーク先生を第一等の植物学者だと思っておりました。この先生のいったことは植物学上誤りのないことだと思っておりましたBしかしながら彼の本国に行って聞いたら、先生だいぶ化《ばけ》の皮が現われた。かの国のある学者が、クラークが植物学について口を利《き》くなどとは不思議だ、といって笑っておりました。しかしながら、とにかく先生は
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