ばかりでなく、社会に遺して逝くということです、それは多くの人の考えにあるところではないかと思います。それでソウいうことをキリスト信者の前にいいますると、金《かね》を遺すなどということは実につまらないことではないかという反対がジキに出るだろうと思います。私は覚えております。明治十六年に初めて札幌から山男になって東京に出てきました。その時分に東京には奇体《きたい》な現象があって、それを名づけてリバイバルというたのです。その時分私は後世に何を遺さんかと思っておりしかというに、私は実業教育を受けたものであったから、もちろん金を遺したかった、億万の富を日本に遺して、日本を救ってやりたいという考えをもっておりました。自分には明治二十七年になったら、夏期学校の講師に選ばれるという考えは、その時分にはチットもなかったのです(満場大笑)。金を遺したい、金満家になりたい、という希望を持っておったのです。ところがこのことをあるリバイバルに非常に熱心の牧師先生に話したところが、その牧師さんに私は非常に叱られました。「金を遺したい、というイクジのない、そんなものはドウにもなるから、君は福音のために働きたまえ」というて戒《いまし》められた。しかし私はその決心を変更しなかった。今でも変更しない。金を遺すものを賤《いや》しめるような人はやはり金のことに賤しい人であります、吝嗇《けち》な人であります。金というものは、ここで金の価値について長い講釈をするには及びませぬけれども、しかしながら金というものの必要は、あなたがた十分に認めておいでなさるだろうと思います。金は宇宙のものであるから、金というものはいつでもできるものだという人に向って、フランクリンは答えて「そんなら今|拵《こしら》えてみたまえ」と申しました。それで私に金などは要《い》らないというた牧師先生はドウいう人であったかというに、後で聞いてみると、やはりずいぶん金を欲しがっている人だそうです。それで金というものは、いつでも得られるものであるということは、われわれが始終持っている考えでございますけれども、実際金の要《い》るときになってから金というものは得るに非常にむずかしいものです。そうしてあるときは富というものはAどこでも得られるように、空中にでも懸っているもののように思いますけれども、その富を一つに集めることのできるものは、これは非常に神の
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