て動物園になっている平地に出ると猿や熊が熱そうに檻の中をのたうち歩き、ラジオのジャズがきこえて、旅情も何もあったものではなかった。橋があるといわれた橋は「しらつる橋」、それは谷に架《か》け渡された吊り橋である。踏めばきしきしと揺れ、子供達が駈けて通ると、欄干がぎいぎいときしんだ。下は真ッ暗な谷で、ゆずり葉の大木が谷底からぬッと橋の上まで首を伸ばしている。昔はどんな風体の人間が往き来したものだろうか、侍だの、奴だの、御殿女中だの……その頃は勿論、葛か何かの危険な橋だったに違いなく、雪が降ったら美しい風景だろう――なんて、此処でやっと童話的な気分を少し味わう。フォンテンブロオの森にあるミレエとルソオの記念碑に模して、天然石へパネルを嵌《は》め込んだものだという、千曲川旅情の歌の碑は、城趾の崖の上にはあるにあるが、「千曲川いざよふ波の」という千曲川よりも、つい眼の前の新しい製糸工場の建物の方がよっぽど眼に近い。向こうの翠の丘の下をうねうねと流れている千曲川の水は、掩いかぶさった老松の間から、奔騰する泡のように、白く光ってみえるだけだった。
 城というものは大抵高所に築かれるものだが、この城は穴城といって、千曲川の水利に拠るもので、こういう築城法は、古来日本にも類例がないんです――と土地の青年がいっていたが、今はもうそれらしいものもなくて、石垣ばかりしか見られない。
 碑の傍に腰をおろしていると、一緒に上ってきたアッパッパに日傘の娘さん達も、そこに来て休んだ。だが彼女たちは詩碑にチラと一瞥をくれただけで、外の景色を見おろしながら、いろんな話をしていた。そして左の方に見える、怪物のように横たわった偉大な三本のドラフトを指しながら「信濃川のが東洋一なら、この水電のドラフトは日本一なんですって、凄いもんでしょう」感動をこめて自慢する。「まさか」という笑い方をしたら、厳めしい顔をふり向けて、「そりゃ、ほんとです」といった。こんなだと、この古城趾も遠からず、昔を偲ぶ雰囲気などなくなって、工場の煤煙に包まれるだろうと思った。



底本:「空にむかひて 若杉鳥子随筆集」武蔵野書房
   2001(平成13)年1月21日初版第1刷発行
初出:「都新聞」
   1934(昭和9)年7月28〜29日
入力:林 幸雄
校正:小林 徹
2003年4月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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