それがまだ、良人《やど》のゐる中は兎も角、亡くなつてからといふものは一層露骨になつてきたのです。三つの時から育て上げた彼奴までがさうなんです。この眼の惡いのもみんな先妻の罸だといふんです」
 女の子も男の子も悉く反逆者だといふ事を知つた時は、躯一つの他に何もなかつた。その躯だつて、眼は惡し、脚も不自由になつてゐた――とお房さんは話しても話しても盡きさうもない事を話しつゞけた。
 その中に日が暮れた。その晩もお房さんは話しつゞけた。たうとう泊つてしまつた。

 ねんねんねやまの小兎は
 なあぜにお耳がなあがいのう
 榧の實椎の實たべたからあ
 そおれでお耳がなあがいのう
 お房さんは赤ん坊を抱いて、家の中を搖すぶり歩いた。しかし何處か調子が異ふと見えて、赤ん坊は反り返つて泣き喚めいてお房さんを反撥した。毎日、朝の用事が片附くと、お房さんは私の前へ來て坐つて、懐舊談を始めた。娼妓時代から、否その以前から、まるで他人の事のやうに雄辯に喋べる。喋つてゐる人は樂しさうだが、雜用を控へてる私は、それを聽かされることが、日一日と苦になつてゆく許りだつた。終ひにはお房さんの追憶の泥水が、私の新しい日々を氾濫させてしまひさうにさへ思つた。
 過去に生きる人だ、せめてそれを聽いてやらう――さう思つて辛抱してゐた私は、何時の間にか彼女のエゴを惡み出してゐた。
 しかしまだ私は何にも氣がつかずにゐた。
 お房さんは働く時も喋つてゐる時も、白い襷をかけてゐた。夜もそれをとらずに、蚊帳も吊らず部屋の隅に、ごろりと横になつてゐた。夜も餘り睡れないらしい。
 夜半に赤ん坊が泣きでもすると、彼女は物々しい姿で、私の蚊帳の中へ飛び込んで來た。
「何でもないんですのよ、どうか小母さんそんな風をしないで、あたりまへに床をとつて寢て下さいね」
 毎晩さういつても決して彼女は、きかなかつた。火事場のやうに慌たゞしい氣分が、晝も夜も私を驅り立てゝゐた。
 彼女を見てゐると、始終自分の傍で火が燃えてゐるやうな氣がした。看てゐないと、飛んでもない處に燃えつきさうだ、私も全く弱り切つてしまつた。
「小母さん、あなたはもう妹さんの處へお歸りになるつもりはないんですか」
 私は散々考へた末、たうとう切り出した。
「家でも廣ければ、小母さんに何時までもゐて戴きたいんですけど、この通りの生活でせう……」
 お房さんは默つてこつくりと頷いた。空虚な顏つきをしてゐた。
 縋つてくる者を突き放したやうに、私は寂しかつたが、どうともしやうがなかつた。
「妹の處へ歸るのは、しみじみ私は厭なんです、それよか一層、派出婦人會にでも入つて働いて見ようかと思ふんです」
 その夕方新聞の廣告欄を見てゐた彼女は急にこんなことをいひ出した。
「でも、それはあなたに骨が折れ過ぎはしないでせうか」
 一人の女の生涯が、玄翁か何かで粉碎されたやうに私は感じた。しかし他によい方法があるではなし、極力それを止めさせるだけの強い事もいへなかつた。
 午後、小さい風呂敷包を持つて出て行く、お房さんの後姿を默つて私は見送つた。

 一週間ばかりすると、お房さんはやつて來た。相變らず漬け梅のやうな赤い顏をしてゐた。
「會長さんといふのは、まだ若い方でしたが、なかなか物事の解るらしい落ちついた方でして、それに私はいつたんですよ、片山とし子樣の御紹介ですつて」
「えツ、何故そんな事をいつたんです」
「片山とし子樣、片山とし子樣つて……」
 私は少し妙だなあと思つた。片山とし子等といつたつて、こんな裏街に赤ん坊と二人で暮してゐる、下級サラリーマンの妻でしかない自分を、有力この上もない紹介者などゝ思ひ込んでゐる彼女の常識を、疑はないわけにはゆかなかつた。勿論新聞廣告をする派出婦會だから、紹介者も何も必要なわけはないんだ。
「骨が折れませうね、小母さん――」
 自分にもその責任[#「任」は底本では「仕」と誤記]を感じながら私はいつた。
「えゝ、頼む程の家でしたら、入つて行くともう、洗濯物が山のやうに出してあるんですよ」
 私は彼女の手を見てゐた。骨組みの頑丈な手をしてゐた。それによつて、幾らか氣持ちが輕くさせられた。
「かうして毎日方々歩いてゐますと、隨分妙な事にぶつかるもんですね」
「それはさうです。いろんな家庭がありませうからね」
「いゝえね、あなた、愕いちまふやうな恐い事に出つくわしたんです」
「どうしたんですの、恐いことつて」
「私はもう派出婦なんて商賣は止めてしまはうかと思ふんです、どうもあんな事に出會つて見ると堪らなく心配になつて來たんです。それがねあなた、妻君に死なれて子供と二人でゐる人の處にやられたんです。どうも男といふものは全く油斷も何も出來るものぢやありません」
 もう五十に手の屆きさうなお房さんは、何か面白くて堪ら
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