《ねん》の間《あいだ》わき目《め》もふらずに戦《たたか》いました。
この戦《いくさ》の間《あいだ》のことでした。ある日《ひ》義家《よしいえ》が何気《なにげ》なく野原《のはら》を通《とお》って行きますと、草《くさ》の深《ふか》く茂《しげ》った中から、出《だ》し抜《ぬ》けにばらばらとがんがたくさん飛《と》び立《た》ちました。義家《よしいえ》はこれを見《み》てしばらく考《かんが》えていましたが、
「野《の》にがんが乱《みだ》れて立《た》ったところをみると、きっと伏兵《ふくへい》があるのだ。それ、こちらから先《さき》へかかれ。」
といいつけて、そこらの野原《のはら》を狩《か》りたてますと、案《あん》の定《じょう》たくさんの伏兵《ふくへい》が草《くさ》の中にかくれていました。そしてみんなみつかって殺《ころ》されてしまいました。その時《とき》義家《よしいえ》は家来《けらい》たちに向《む》かって、
「がんの乱《みだ》れて立《た》つ時《とき》は伏兵《ふくへい》があるしるしだということは、匡房《まさふさ》の卿《きょう》から教《おそ》わった兵学《へいがく》の本《ほん》にあることだ。お陰《かげ》で危《あぶ》ないところを助《たす》かった。だから学問《がくもん》はしなければならないものだ。」
といいました。
こんどの戦《いくさ》は前《まえ》の時《とき》に劣《おと》らず随分《ずいぶん》苦《くる》しい戦争《せんそう》でしたけれど、三|年《ねん》めにはすっかり片付《かたづ》いてしまって、義家《よしいえ》はまた久《ひさ》し振《ぶ》りで都《みやこ》へ帰《かえ》ることになりました。ちょうど春《はる》のことで、奥州《おうしゅう》を出て海《うみ》伝《づた》いに常陸《ひたち》の国《くに》へ入《はい》ろうとして、国境《くにざかい》の勿来《なこそ》の関《せき》にかかりますと、みごとな山桜《やまざくら》がいっぱい咲《さ》いて、風《かぜ》も吹《ふ》かないのにはらはらと鎧《よろい》の袖《そで》にちりかかりました。義家《よしいえ》はその時《とき》馬《うま》の上でふり返《かえ》って桜《さくら》の花《はな》を仰《あお》ぎながら、
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「吹《ふ》く風《かぜ》を
なこその関《そき》と
思《おも》えども
道《みち》も狭《せ》に散《ち》る
山桜《やまざくら》かな。」
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という歌《うた》を詠《よ》みました。
これは「風《かぜ》が中へ吹《ふ》きこんで来《き》てはいけないぞといって立《た》てた関所《せきしょ》であるはずなのに、どうしてこんなに通《とお》り道《みち》もふさがるほど、山桜《やまざくら》の花《はな》がたくさん散《ち》りかかるのであろう。」といって、桜《さくら》の散《ち》るのを惜《お》しんだのです。
五
八幡太郎《はちまんたろう》の名《な》はその後《のち》ますます高《たか》くなって、しまいには鳥《とり》けだものまでその名《な》を聞《き》いて恐《おそ》れたといわれるほどになりました。
ある時《とき》、天子《てんし》さまの御所《ごしょ》に毎晩《まいばん》不思議《ふしぎ》な魔物《まもの》が現《あらわ》れて、その現《あらわ》れる時刻《じこく》になると、天子《てんし》さまは急《きゅう》にお熱《ねつ》が出て、おこりというはげしい病《やまい》をお病《や》みになりました。そこで、八幡太郎《はちまんたろう》においいつけになって、御所《ごしょ》の警固《けいご》をさせることになりました。義家《よしいえ》は仰《おお》せをうけると、すぐ鎧《よろい》直垂《ひたたれ》に身《み》を固《かた》めて、弓矢《ゆみや》をもって御所《ごしょ》のお庭《にわ》のまん中に立《た》って見張《みは》りをしていました。真夜中《まよなか》すぎになって、いつものとおり天子《てんし》さまがおこりをお病《や》みになる刻限《こくげん》になりました。義家《よしいえ》はまっくらなお庭《にわ》の上につっ立《た》って、魔物《まもの》の来《く》ると思《おも》われる方角《ほうがく》をきっとにらみつけながら、弓絃《ゆみづる》をぴん、ぴん、ぴんと三|度《ど》まで鳴《な》らしました。そして、
「八幡太郎《はちまんたろう》義家《よしいえ》。」
と大きな声《こえ》で名《な》のりました。するとそれなりすっと魔物《まもの》は消《き》えて、天子《てんし》さまの御病気《ごびょうき》はきれいになおってしまいました。
またある時《とき》野原《のはら》へ狩《かり》に出かけますと、向《む》こうからきつねが一|匹《ぴき》出て来《き》ました。義家《よしいえ》はそれを見《み》て、あんな小《ちい》さなけものに矢《や》をあてるのもむごたらしい、おどしてやろうと思《おも》って、弓《ゆみ》に矢《や》をつがえて、わざときつねの目の前《まえ》の地《じ》びたに向《む》けて放《はな》しますと、矢《や》は絃《つる》をはなれて、やがてきつねのまん前《まえ》にひょいと立《た》ちました。するときつねはそれだけでもう目をまわして、くるりとひっくりかえると思《おも》うと、そのまま倒《たお》れて死《し》んでしまいました。
またある時《とき》義家《よしいえ》が時《とき》の大臣《だいじん》の御堂殿《みどうどの》のお屋敷《やしき》へよばれて行きますと、ちょうどそこには解脱寺《げだつじ》の観修《かんしゅう》というえらい坊《ぼう》さんや、安倍晴明《あべのせいめい》という名高《なだか》い陰陽師《おんみょうじ》や、忠明《ただあきら》という名人《めいじん》の医者《いしゃ》が来合《きあ》わせていました。その時《とき》ちょうど奈良《なら》から初《はつ》もののうりを献上《けんじょう》して来《き》ました。珍《めずら》しい大きなうりだからというので、そのままお盆《ぼん》にのせて四|人《にん》のお客《きゃく》の前《まえ》に出《だ》しました。するとまず安倍晴明《あべのせいめい》がそのうりを手にのせて、
「ほう、これは珍《めずら》しいうりだ。」
といって、眺《なが》めていました。そして、
「しかしどうも、この中には悪《わる》いものが入《はい》っているようです。」
といいました。すると御堂殿《みどうどの》は解脱寺《げだつじ》の坊《ぼう》さんに向《む》かって、
「ではお上人《しょうにん》、一つ加持《かじ》をしてみて下《くだ》さい。」
といいました。坊《ぼう》さんが承知《しょうち》して珠数《じゅず》をつまぐりながら、何《なに》か祈《いの》りはじめますと、不思議《ふしぎ》にもうりがむくむくと動《うご》き出《だ》しました。さてこそ怪《あや》しいうりだというので、お医者《いしゃ》の忠明《ただあきら》が針療治《はりりょうじ》に使《つか》う針《はり》を出《だ》して、
「どれ、わたしが止《と》めてやりましょう。」
といいながら、うりの胴中《どうなか》に二所《ふたところ》まで針《はり》を打《う》ちますと、なるほどそのままうりは動《うご》かなくなってしまいました。そこで一ばんおしまいに義家《よしいえ》が、短刀《たんとう》をぬいて、
「ではわたしが割《わ》って見《み》ましょう。」
といいながらうりを割《わ》りますと、中には案《あん》の定《じょう》小蛇《こへび》が一|匹《ぴき》入《はい》っていました。見《み》ると忠明《ただあきら》のうった針《はり》が、ちゃんと両方《りょうほう》の目にささっていました。
そして義家《よしいえ》がつい無造作《むぞうさ》に切《き》り込《こ》んだ短刀《たんとう》は、りっぱに蛇《へび》の首《くび》と胴《どう》を切《き》り離《はな》していました。
御堂殿《みどうどの》は感心《かんしん》して、
「なるほどその道《みち》に名高《なだか》い名人《めいじん》たちのすることは、さすがに違《ちが》ったものだ。」
といいました。
六
八幡太郎《はちまんたろう》は七十|近《ちか》くまで長生《ながい》きをして、六、七|代《だい》の天子《てんし》さまにお仕《つか》え申《もう》し上《あ》げました。ですからその一|代《だい》の間《あいだ》には、りっぱな武勇《ぶゆう》の話《はなし》は数《かず》しれずあって、それがみんな後《のち》の武士《ぶし》たちのお手本《てほん》になったのでした。
底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年9月29日作成
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