たくいいつけられていましたから、強《つよ》く首《くび》を振《ふる》って、
「それはいけませんよ。」
といいました。
「なぜ、いけないのでしょう。」
と少女《おとめ》は子供《こども》らしい目をくりくりとさせて、さもふしぎそうにたずねました。
「だって羽衣《はごろも》を見《み》せると、それを着《き》て、また天《てん》へ帰《かえ》ってしまうでしょう。」
「まあ、わたくし、人間《にんげん》の世界《せかい》がすっかり好《す》きになったと申《もう》し上《あ》げたではございませんか。おかあさん、お願《ねが》いです、ほんの一目《ひとめ》見《み》ればいいのですから。」
と、少女《おとめ》はしきりとおかあさんに甘《あま》えるように頼《たの》んでいました。そのかわいらしい様子《ようす》を見《み》ていると、おかあさんは、何《なん》でもそのいうとおりにしてやらなければならないような気《き》がしてきました。
「ではほんのちょいとですよ、伊香刀美《いかとみ》にはないしょでね。」
とおかあさんはいいながら、戸棚《とだな》の奥《おく》にしまってある箱《はこ》を出《だ》しました。少女《おとめ》は胸《むね》をどきつかせながらのぞき込《こ》みますと、おかあさんはそっと箱《はこ》のふたをあけました。中からはぷんといい香《かお》りがたって、羽衣《はごろも》はそっくり元《もと》のままで、きれいにたたんで入《い》れてありました。
「まあ、そっくりしておりますのね。」
と少女《おとめ》は目を輝《かがや》かしながら見《み》ていましたが、
「でも、もしどこかいたんでいやしないかしら。」
というなり、箱《はこ》の中の羽衣《はごろも》を手に取《と》りました。そしておかあさんが「おや。」と止《と》めるひまもないうちに、手ばやく羽衣《はごろも》を着《き》ると、そのまますうっと上へ舞《ま》い上《あ》がりました。
「ああ、あれあれ。」
と、おかあさんは両手《りょうて》をひろげてつかまえようとしました。その間《ま》に少女《おとめ》の姿《すがた》は、もう高《たか》く高《たか》く空《そら》の上へ上《あ》がっていって、やがて見《み》えなくなりました。
帰《かえ》って来《き》て伊香刀美《いかとみ》はどんなにがっかりしたでしょう。三|年前《ねんまえ》に湖《みずうみ》のそばで少女《おとめ》がしたように、足《あし》ずりをしてくやしがりましたが、かわいらしい白い鳥《とり》の姿《すがた》は、果《は》てしれない大空《おおぞら》のどこかにかくれてしまって、天《てん》と地《ち》の間《あいだ》には、いくえにもいくえにも、深《ふか》い霞《かすみ》が立《た》ち込《こ》めたまま春《はる》の日《ひ》は暮《く》れていきました。
底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年9月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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