民《じんみん》たちはみんなうろたえて右《みぎ》に左《ひだり》に逃《に》げ廻《まわ》っていました。どうしたのだろうと思《おも》って聞《き》くと、なんでも今《いま》の天子《てんし》さまの後白河天皇《ごしらかわてんのう》さまと、とうにお位《くらい》をおすべりになって新院《しんいん》とおよばれになった先《さき》の天子《てんし》さまの崇徳院《すとくいん》さまとの間《あいだ》に行きちがいができて、敵味方《てきみかた》に別《わか》れて戦争《せんそう》をなさろうというのでした。朝廷《ちょうてい》が二派《ふたは》に分《わ》かれたものですから、自然《しぜん》おそばの武士《ぶし》たちの仲間《なかま》も二派《ふたは》に分《わ》かれました。そして、後白河天皇《ごしらかわてんのう》の方《ほう》へは源義朝《みなもとのよしとも》だの平清盛《たいらのきよもり》だの、源三位頼政《げんざんみのよりまさ》だのという、そのころ一ばん名高《なだか》い大将《たいしょう》たちが残《のこ》らずお味方《みかた》に上《あ》がりましたから、新院《しんいん》の方《ほう》でも負《ま》けずに強《つよ》い大将《たいしょう》たちをお集《あつ》めになるつもりで、まずおとがめをうけて押《お》しこめられている六条判官為義《ろくじょうほうがんためよし》の罪《つみ》をゆるして、味方《みかた》の大将軍《たいしょうぐん》になさいました。為義《ためよし》はもう七十の上を出た年寄《としよ》り[#「年寄《としよ》り」は底本では「年寄《としより》り」]のことでもあり、天子《てんし》さま同士《どうし》のお争《あらそ》いでは、どちらのお身方《みかた》をしてもぐあいが悪《わる》いと思《おも》って、
「わたくしはこのまま引《ひ》き籠《こも》っていとうございます。」
といって、はじめはお断《ことわ》りを申《もう》し上《あ》げたのですが、どうしてもお聞《き》き入《い》れにならないので、しかたなしに長男《ちょうなん》の義朝《よしとも》をのけた外《ほか》の子供《こども》たちを残《のこ》らず連《つ》れて、新院《しんいん》の御所《ごしょ》に上《あ》がることになりました。
そういうさわぎの中に為朝《ためとも》がひょっこり帰《かえ》って来《き》たのです。為義《ためよし》ももう昔《むかし》のように為朝《ためとも》をしかっているひまはありません。大《おお》よろこびで、さっそく
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