かたわな手をさしだしました。なにしろこの宿屋のおかみさんからして、はだしでくしを入れないぼやぼやのあたまに、よごれくさったブルーズ一枚でお客を迎えました。戸はひもでくくりつけてありました。へやのゆかは煉瓦《れんが》が半分くずれた上を掘りかえしたようなていさいでした。こうもりが天井《てんじょう》の下をとびまわって、へやのなかから、むっとくさいにおいがしました――。
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*旦那さま、かわいそうなものでございます。
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「そうだ、いっそ食卓はうまやのなかにもちだすがいい。」と、旅人のひとりがいいました。「まだしもあそこなら息ができそうだ。」
窓はあけはなされました。そうすればすこしはすずしい風がはいってくるかとおもったのです。ところが風よりももっとす早く、かったい[#「かったい」に傍点]ぼうの手がでて来て、相変らず「ミゼラビリ・エチェレンツア」と鼻をならしつづけました。壁のうえにはたくさん楽書《らくがき》がしてありましたが、その半分は*「ベルラ・イタリア」にはんたいなことばばかりでした。
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*イタリアよいとこ。
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夕飯がでました。それはこしょうと、ぷんとくさい脂で味をつけた水っぽいスープとでした。そのくさい脂がサラダのおもな味でした。かびくさい卵と、鶏冠《とさか》の焼いたのが一とうのごちそうでした。ぶどう酒《しゅ》までがへんな味がしました。それはたまらないまぜものがしてありました。
夜になると、旅かばんをならべて戸に寄せかけました。ほかのもののねているあいだ、旅人のひとりが交代で起きて夜番をすることになりました。そこで神学生がまずその役にあたりました。ああ、なんてむんむすることか。暑さに息がふさがるようでした。蚊《か》がぶん、ぶん、とんで来て刺しました。おもての「ミゼラビリ」は夢のなかでも泣きつづけていました。
「そりゃ旅行もけっこうなものさ。」と、神学生はいいました。「人間に肉体というものがなければな。からだは休ましておいて、心だけとびあるくことができたらいいさ。どこへいってもぼくは心をおされるよう不満にであう。ぼく[#「ぼく」は底本では「くぼ」]ののぞんでいたのは、現在の境遇より少しはいいものなのだ。そうだ、もう少しいいもの、いちばんいいものだ。だが、それはどこにある。それはなんだ。心のそこには求めているものがなにかよくわかっている。わたしは幸福を目あてにしたいのだ。すべてのもののなかでいちばん幸福なものをね。」
すると、いうがはやいか、学生は、もうじぶんの内へかえっていました、長い、白いカーテンが窓からさがっていました。そうしてへやのまんなかに、黒い棺《かん》がおいてありました。そのなかで、学生は死んで、しずかに眠っていたのでした。のぞみははたされたのです――肉体は休息して、精神だけが自由に旅をしていました。「いまだ墓にいらざるまえ、なにびとも幸福というを得ず。」とは、ギリシアの賢人ソロンの言葉でした。ここにそのことばが新しく証明されたわけです。
すべて、しかばねは不死不滅のスフィンクスです。いま目のまえの黒い棺《かん》のなかにあるスフィンクスも、死ぬつい三日まえ書いた、次のことばでそのこたえをあたえているのです。
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いかめしい死よ、おまえの沈黙は恐怖をさそう。
おまえの地上にのこす痕跡《あと》は寺の墓場だけなのか。
たましいは*ヤコブのはしごを見ることはないのか。
墓場の草となるほかに復活の道はないのか。
この上なく深いかなしみをも世間はしばしばみすごしている。
おまえは孤独のまま最後の道をたどっていく。
しかもこの世にあって心の荷《にな》う義務はいやが上に重い、
それは棺の壁をおす土よりも重いのだ。
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* ヤコブがみたという地上と天国をつなぐはしご(創世記二八ノ一二)
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ふたつの姿がへやのなかでちらちら動いていました。わたしたちはふたりとも知っています。それは心配の妖女《ようじょ》と、幸福の女神の召使でした。ふたりは死人の上にのぞきこみました。
[#挿絵(fig42380_07.png)入る]
心配がいいました。「ごらん、おまえさんのうわおいぐつがどんな幸福をさずけたでしょう。」
「でも、とにかくここに寝ている男には、ながい善福をさずけたではありませんか。」と、よろこびがこたえました。
「まあ、どうして。」と、心配がいいました。「この人はじぶんで出て行ったので、まだ召されたわけではなかったのですよ。この人の精神はまだ強さが足りないので、当然掘り起さなければならないはずの宝を掘り起さずにしまいました。わたしはこの人に好いことをして
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