うな。」
 夜番がこういって、こころのねがいを口にだしますと、はいていたうわおいぐつはみるみる効能をあらわして、夜番のたましいはするすると中尉のからだとこころのなかへ運んで持っていかれました。
 そこで夜番は、二階のへやにはいって、ちいさなばら色の紙を指のまたにはさんで持ちました。それには詩が、中尉君自作の詩が書いてありました。それはどんな人だって、一生にいちどは心のなかを歌にうたいたい気持になるおりがあるもので、そういうとき、おもったとおりを紙に書けば[#「書けば」は底本では「書けは」]、詩になります。そこで紙にはこう書いてありました。

[#ここから3字下げ]
  「ああ、金持でありたいな。」

「ああ、金持でありたいな。」おれはたびたびそうおもった。
やっと二尺のがきのとき、おれはいろんな望をおこした。
ああ、金持でありたいな――そうして士官になろうとした、
サーベルさげて、軍服すがたに、負革《おいかわ》かけて。
時節がくると、おれも士官になりすました。
さてはや、いっこう金《かね》はできない。なさけないやつ。
 全能の神さま、お助けください。

ある晩、元気で浮かれていると、
ちいさい女の子がキスしてくれた、
おとぎ歌なら、持ちあわせは山ほど、
そのくせ金にはいつでも貧乏――
こどもは歌さえあればかまわぬ。
歌なら、山ほど、金には、いつもなさけないやつ。
 全能の神さま、ごらんのとおり。

「ああ、金持でありたいな。」おいのりがこうきこえだす。
こどもはみるみるむすめになった、
りこうで、きれいで、心もやさしいむすめになった。
ああ、分らせたい、おれの心のうちにある――
それこそ大したおとぎ話を――むすめがやさしい心をみせりゃ。
だが金はなし、口には出せぬ。なさけないやつ。
 全能の神さま、おこころしだいに。

ああ、せめてかわりに、休息と慰安《なぐさめ》、それでもほしい。
そうすりゃなにも心の悩み、紙にかくにもあたらない。
おれの心をささげたおまえだ、わかってもくれよ。
若いおもい出つづった歌だ、読んでもくれよ。
だめだ、やっぱりこのままくらい夜《よる》にささげてしまうがましか。
未来はやみだ、いやはやなさけないやつめ。
 全能の神さま、おめぐみください。
[#ここで字下げ終わり]

 そうです、人は恋をしているときこんな詩をつくります。でも用心ぶかい人は、そんなものを印刷したりしないものです。中尉と恋と貧乏、これが三角の形です。それとも幸福のさいころのこわれた半かけとでもいいましようか。それを中尉はつくづくおもっていました。そこで、窓わくにあたまをおしつけて、ふかいため息ばかりついていました。
「あすこの往来にねている貧しい夜番のほうが、おれよりはずっと幸福だ。あの男にはおれのおもっているような不足というものがない。家もあり、かみさんもあり、こどももあって、あの男のかなしいことには泣いてくれ、うれしいことには喜んでくれる。ああ、おれはいっそあの男と代ることができたら、今よりずっと幸福になれるのだがな。あの男はおれよりずっと幸福なのだからな。」
 中尉がこうひとりごとをいうと、そのしゅんかん、夜番はまたもとの夜番になりました。なぜなら幸福のうわおいぐつのおかげで、夜番のたましいは中尉のからだを借りたのですけれど、その中尉は、夜番よりもいっそう不平家で、おれはもとの夜番になりたいとのぞんだのでした。そこで、そのおのぞみどおり、夜番はまた夜番になってしまったのです。
「いやな夢だった。」と、夜番はいいました。「が、ずいぶんばかばかしかった。おれはむこう二階の中尉さんになったようにおもったが、まるで愉快でもなんでもなかった。息のつまるほどほおずりしようとまちかまえていてくれる、かみさんやこどものいることを忘れてなるものか。」
 夜番はまたすわって、こくりこくりやっていました。夢がまだはっきりはなれずにいました。うわおいぐつはまだ足にはまっていました。そのとき流れ星がひとつ、空をすべって落ちました。
「ほう、星がとんだ。」と、夜番はいいました。「だが、いくらとんでも、あとにはたくさん星がのこっている。どうかして、もう少し星のそばによってみたいものだ。とりわけ月の正体をみてみたいものだ。あれだけはどんなことがあっても、ただの星とちがって、手の下からすべって消えていくということはないからな。うちのかみさんがせんたく物をしてやっている学生の話では、おれたちは死ぬと、星から星へとぶのだそうだ。それはうそだが、しかしずいぶんおもしろい話だとおもう。どうかしておれも星の世界までちょいととんでいくくふうはないかしら、すると、からだぐらいはこの段段のうえにのこしていってもいい。」
 ところで、この世の中には、おたがい口にだしていうことをつつ
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