おいでなのですわ。それであなたに不意討《ふいう》ちを食わせて、おどろかそうというのでしょう。
 それもおもしろいでしょう。でもわたしはちっともおどろきませんわ」
「おい、リーズ、そんなことを言っているうちに、だしぬけを食ってびっくりするなよ」とわたしは言った。そのとき外でがらがらと馬車の止まった音がした。
 一人、一人、お客が着くと、わたしとリーズは広間へ出てむかえた。アッケン氏《し》、カトリーヌおばさん、エチエネット、それからたったいま植物採集《しょくぶつさいしゅう》の旅から帰ったばかりの有名な植物学者バンジャメン・アッケンの胴色《どういろ》に焼《や》けた顔が現《あらわ》れた。それから青年が一人、老人《ろうじん》が一人やって来た。今度の旅行はかれらにとって二重の興味《きょうみ》があった。というわけは、この人たちはわたしどもの招待《しょうたい》をすませると、ウェールズまで鉱山《こうざん》見物に出かけるはずになっていた。この青年のほうは鉱山の視察《しさつ》をとげて、国にたんとみやげ話を持って帰って、かれがいまツルイエールの鉱山でしめている重い位置《いち》にいっそうの箔《はく》をつけようというのであったし、老人《ろうじん》のほうはこのごろヴァルセの町で鉱石収集《こうせきしゅうしゅう》をやって町で重んぜられているので、今度の調査《ちょうさ》の結果《けっか》いっそう重大な発見をとげて帰ろうとするのであった。この老人《ろうじん》と青年というのは、言うまでもなく、ヴァルセ鉱山《こうざん》で働《はたら》いていた「先生」と、アルキシーとであった。
 リーズとわたしが来賓《らいひん》にあいさつをしていると、またがらがらと四輪馬車《よりんばしゃ》が着いて、アーサとクリスチーナとマチアが中から出て来た。すぐそのあとに続《つづ》いて、一両の二輪馬車が着いた。気の利《き》いた顔つきの男が御者《ぎょしゃ》をして、これと背中《せなか》合わせに一人、ぼろぼろの服を着た船乗りが乗っていた。たづなをひかえて御者をしているのは、このごろ金のできたボブで、いっしょに乗って来たのは、あのときわたしをイギリスの海岸からにがしてくれたボブの兄であった。
 さて洗礼式《せいれいしき》がすむと、マチアはわたしを窓際《まどぎわ》まで連《つ》れ出した。
「わたしたちはこれまで、知らないよその人のためにばかり音楽をやっていた。さあこの記念《きねん》の席上《せきじょう》でわたしたちの愛《あい》する人びとのために音楽をやろうじやないか」とかれは言った。
「おい、マチア、きみは音楽のほかに楽しみのない男だね」とわたしは笑《わら》いながら言った。「きみの音楽のおかげで雌牛《めうし》をおどろかして、ひどい目に会ったっけなあ」
 マチアは歯をむき出して笑った。
 ビロードで側《がわ》を張《は》ったりっぱなはこから、売ったら二フランとはふめまいと思う古ぼけたヴァイオリンをマチアは取り出した。わたしもふくろの中から、むかしのハープを取り出した。雨に洗《あら》われて、もとのぬり色ももう見分けることができなくなっていた。
「きみは好《す》きなナポリ小唄《こうた》を歌いたまえ」とマチアが言った。
「うん、この歌のおかげで、リーズは口がきけるようになったのだからなあ」
 こうわたしは言って、にっこりしながら、そばに立っていた妻《つま》をふり向いた。
 来賓《らいひん》はわたしたちのぐるりを取《と》り巻《ま》いた。
 ふと一ぴきの犬がとび出して来た。
 大好《だいす》きなカピのじいさん、この犬はもうたいへん年を取って、耳が遠くなっていたが、視力《しりょく》はまだなかなかしっかりしていた。ねていた暖《あたた》かいしとねの上から、むかしなじみのハープを見つけると、「演芸《えんげい》」が始まると思ってはね起きて来た。歯ぐきの間には下ざらを一|枚《まい》くわえていた。かれは「ご臨席《りんせき》の来賓諸君《らいひんしょくん》」の間をどうどうめぐりするつもりでいた。
 かれはむかしのように、後足で立って歩こうとした。けれどもうそれだけの力がないので、まじめくさってぺったりすわったまま、前足で胸《むね》を打って、来賓にごあいさつをした。
 わたしたちの歌がおしまいになると、カピはいっしょうけんめい立ち上がって、「どうどうめぐり」を始めた。みんなが下ざらにいくらかずつほうりこむと、カピはほくほくしてそれをわたしの所へ持って帰った。これこそかれがこれまで集めたいちばんの金高であった。中には金貨《きんか》と銀貨ばかり――百七十フランはいっていた。
 わたしはむかししたように、かれの冷《つめ》たい鼻にキッスした。するうち、子どもの時代の困窮《こんきゅう》が思い出して、ふとある考えがうかんだ。わたしはそこで来賓《らいひん》に向かって、この金はさっそくあわれな大道音楽師《だいどうおんがくし》のために救護所《きゅうごしょ》設立《せつりつ》の第一回|寄付金《きふきん》としたいと宣言《せんげん》した。そのあとの寄付はわたしと母とですることにする。
「おくさん」とそのときマチアがわたしの母の手にキッスしながら言った。「わたしにもその慈善事業《じぜんじぎょう》のお手伝《てつだ》いをさせてください。ロンドンで開くはずのわたしの演奏会《えんそうかい》第一夜の収入《しゅうにゅう》は、どうぞカピのさらの中へ入れさせてください」
 こう言うと、カピも「賛成《さんせい》」というように、一声高くウーとほえた。
[#地から1字上げ](おわり)



底本:「家なき子(下)」春陽堂少年少女文庫、春陽堂
   1978(昭和53)年1月30日発行
※底本中、難解な語句の説明に使われた括弧内の文章は、割り注になっています。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年4月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全33ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
楠山 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング