た子どもか」とかれは言った。「なかなかじょうぶそうだね」
「だんなにごあいさつしろ」と父親がわたしに言った。
「ええ、ぼくはごくじょうぶです」
こうわたしはびっくりして答えた。
「おまえは病気になったことはなかったか」
「一度|肺炎《はいえん》をやりました」
「はあ、それはいつだね」
「三年まえです。ぼくは一晩《ひとばん》寒い中でねました。いっしょにいた親方はこごえて死にましたし、ぼくは肺炎になりました」
「それからからだの具合はなんともないか」
「ええ」
「つかれることはないか、ねあせは出ないか」
「ええ。つかれるのはたくさん歩いたからです。けれどほかに具合の悪いところはありません」
かれはそばへ寄《よ》ってわたしのうでにさわった。それから頭を心臓《しんぞう》にすりつけた。今度は背中《せなか》と胸《むね》にさわって、大きく息をしろと言った。かれはまたせきをしろとも言った。それがすむと、かれは長いあいだわたしの顔を見た。そのときわたしはかれがかみつこうとするのだと思ったほど、かれの歯はおそろしい笑《わら》い顔《がお》のうちに光った。しばらくしてかれは父親といっしょに出て行った。
これはなんのわけだろう。あの人はわたしをやとい入れるつもりなのかしら。わたしはマチアともカピとも別《わか》れなければならないのかしら。いやだ。わたしはだれの家来にもなりたくない。まして初《はじ》めっからきらっているあんな人の所へなんか行くものか。
父親は帰って来て、「行きたければ外へ出てもいい」とわたしに言った。わたしは例《れい》のうまやの車の中へはいって行った。するとそこにマチアがいたので、どんなにびっくりしたろう。かれはそのとき指をくちびるに当てた。
「うまやのドアを開けたまえ」とかれは小声で言った。「ぼくはそっとあとから出て行くからね。ぼくがここにいたことを知られてはいけない」
わたしはけむに巻《ま》かれて、言われるとおりにした。
「きみはいま父さんの所へ来た人がだれだか、知ってるかい」とかれは往来《おうらい》へ出ると、目の色を変《か》えてたずねた。「あれがジェイムズ・ミリガン氏《し》だよ。きみの友だちのおじさんだよ」
わたしはしき石道のまん中に行って、ぽかんとかれの顔をながめた。かれはわたしのうでをつかまえてあとから引《ひ》っ張《ぱ》った。
「ぼくは一人ぼっちで出かける気にならなかった」とかれは続《つづ》けた。「だからねむるつもりであすこへはいった。だがぼくはねむれずにいた。するうちきみの父さんと一人の紳士《しんし》がうまやの中へはいって来た。その人たちの言うことを残《のこ》らずぼくは聞いたのだ。はじめはぼくも聞く耳を立てるつもりではなかったが、のちにはそれをしずにいられないようになった。
『どうして、岩のようにじょうぶだ』とその紳士《しんし》が言った。『十人に九人までは死ぬものだが、あれは肺炎《はいえん》の危険《きけん》を通りこして来た』
『おいごさんはどうですね』ときみの父さんがたずねた。
『だんだんよくなるよ。三月《みつき》まえも医者がまたさじを投げた。だが母親がまた救《すく》った。いや、あれはふしぎな母親だよ。ミリガン夫人《ふじん》という女は』
ぼくがこの名前を聞いたとき、どうして窓《まど》に耳をくっつけずにはいられたと思うか。
『ではおいごさんがよくなるのでは、あなたの仕事はむだですね』ときみの父さんがことばを続《つづ》けた。
『さしあたりはまずね』ともう一人が答えた。『だがアーサがこのうえ生きようとは思えない。それができれば奇跡《きせき》というものだ。おれは奇跡を心配しない。あれが死ねば、あの財産《ざいさん》の相続人《そうぞくにん》はおれのほかにはないのだ』
『ご心配なさいますな。わたしが見ています』とドリスコルさんが言った。
『ああ、おまえに任《まか》せておくよ』とミリガン氏《し》が答えた」
これがマチアの話すところであった。
マチアのこの話を聞きながら、わたしの初《はじ》めの考えは、父親にすぐたずねてみることであったが、立ち聞きをされたことを知らせるのは、かしこいしかたではなかった。ミリガン氏《し》は父親と打ち合わせる仕事があるとすれば、たぶんまたうちへ来るだろう。このつぎは向こうで顔を知らないマチアが、あとをつけることもできる。
それから二、三日ののち、マチアはぐうせん往来《おうらい》で、以前《いぜん》ガッソーの曲馬団《きょくばだん》で知り合いになったイギリス人のボブに出会った。わたしはとちゅうでかれがマチアにあいさつするところを見て、ひじょうに仲《なか》のいいことがわかった。
かれはまたすぐとカピやわたしが好《す》きになった。その日からわたしたちはこの国に一人、しっかりした友だちができた。かれはその経験《けいけん》とちえで、のちに困難《こんなん》におちいった場合、わたしたちのひじょうな力になったのであった。
マチアの心配
春の来るのはおそかったが、とうとう一家がロンドンを去る日が来た。馬車がぬりかえられて、商品が積《つ》みこまれた。そこにはぼうし、肩《かた》かけ、ハンケチ、シャツ、膚着《はだぎ》、耳輪《みみわ》、かみそり、せっけん、おしろい、クリーム、なんということなしにいろいろなものが積《つ》まれた。
馬車はもういっぱいになった。馬が買われた。どこからどうして買ったか、わたしは知らなかったが、いつのまにか馬が来ていた。それでいっさい出発の用意ができた。
わたしたちは、いったい祖父《そふ》といっしょにうちに残《のこ》るのか、一家とともに出かけるのか、知らずにいた。けれど父親はわたしたちが音楽でなかなかいい金を取るのを見て、まえの晩《ばん》わたしたちにかれについて行って音楽をやれと言いわたした。
「ねえ、フランスへ帰ろうよ」とマチアは勧《すす》めた。「いまがいいしおどきだ」
「なぜイギリスを旅行して歩いてはいけないのだ」
「なぜならここにいると、きっとなにか始まるにちがいないから。それにフランスへ行けば、ミリガン夫人《ふじん》とアーサを見つけるかもしれない。アーサが加減《かげん》が悪いのだと、夫人《ふじん》はきっと船に乗せて来るだろう。もうだんだん夏になってくるから」
でもわたしはかれに、どうしてもこのままいなければならないと言った。
その日わたしたちは出発した。その午後かれらがごくわずかの値打《ねう》ちしかない品物を売るところを見た。わたしたちはある大きな村に着くと、馬車は広場に引き出されていた。その馬車の横側《よこがわ》は低《ひく》くなっていて、買い手の欲《よく》をそそるように美しく品物がならんでいた。
「値段《ねだん》を見てください。値段を見てください」と父親はさけんだ。「こんな値段はどこへ行ったってあるものじゃありません。まるで売るんじゃない。ただあげるのだ。さあさあ」
「あいつはどろぼうして来たにちがいない」
品物の値段《ねだん》づけを見た往来《おうらい》の人がちょいちょいこう言っているのをわたしは聞いた。かれらがもしそのとき、そばでわたしがきまり悪そうな顔をしているのを見たら、いよいよ推察《すいさつ》の当たっていることを知ったであろう。
かれらはしかしわたしに気がつかなかったとしても、マチアは気がついていた。
「いつまできみはこれをしんぼうしていられるのだ」とかれは言った。
わたしはだまっていた。
「フランスへ帰ろうよ」とかれはまた勧《すす》めた。「なにか起こる。もうすぐになにか起こるとぼくは思う。おそかれ早かれ、ドリスコルさんが、こう品物を安売りするところを見れば、巡査《じゅんさ》がやって来るのはわかっている。そうなればどうする」
「おお、マチア……」
「きみが目をふさいでいれば、ぼくはいよいよ大きく目をあいていなければならない。ぼくたちは二人ともつかまえられる。なにもしなくっても、どうしてその証拠《しょうこ》を見せることができよう。ぼくたちは現《げん》にあの人がこの品物を売って得《え》た金で、三度のものを食べているのではないか」
わたしはついにそこまでは考えなかった。こう言われて、いきなり顔をまっこうからなぐりつけられたように思った。
「でもぼくたちはぼくたちで自分の食べ物を買う金は取っている」と、わたしはどもりながら弁護《べんご》しようとした。
「それはそうだ。けれどぼくたちはどろぼうといっしょに住まっていた」と、マチアはこれまでよりはいっそう思い切った調子で答えた。「それでもし、ぽくたちが牢屋《ろうや》へやられればもう、きみのほんとうのうちの人を探《さが》すこともできなくなるだろう。それにミリガン夫人《ふじん》にも、あのジェイムズ・ミリガンに気をつけるように言ってやりたい。あの人がアーサにどんなことをしかねないか、きみは考えないのだ。まあ行けるうちに少しも早く行こうじゃないか」
「まあもう二、三日考えさしてくれたまえ」とわたしは言った。
「では早くしたまえ。大男|退治《たいじ》のジャックは肉のにおいをかいだ――ぼくは危険《きけん》のにおいをかぎつけている」
こんなふうにして煮《に》えきれずにいるうちに、とうとうぐうぜんの事情《じじょう》が、わたしに思い切ってできなかったことをさせることになった。それはこうであった。
わたしたちがロンドンを立ってから数週間あとであった。父親は競馬《けいば》のあるはずの町で、屋台店の車を立てようとしていた。マチアとわたしは商売のほうになにも用がないので、町からかなりへだたっていた競馬場《けいばじょう》を見に行った。
イギリスの競馬場のぐるりには、たいてい市場が立つことになっていた。いろいろ種類《しゅるい》のちがう香具師《やし》や、音楽師《おんがくし》や、屋台店が二、三日まえから出ていた。
わたしたちはあるテント張《は》り小屋《こや》で、たき火の上に鉄びんがかかっている所を通り過《す》ぎると、曲馬団《きょくばだん》でマチアの友だちであったボブを見つけた。かれはまたわたしたちを見つけたので、たいそう喜《よろこ》んでいた。かれは二人の友だちといっしょに競馬場《けいばじょう》へ来て、力持ちの見世物を出そうとしているところであった。そのためある音楽師《おんがくし》を二、三人やくそくしたが、まぎわになってだめになったので、あしたの興行《こうぎょう》は失敗《しっぱい》になるのではないかと心配していたところであった。かれの仕事にはにぎやかな人寄《ひとよ》せの音楽がなければならなかった。
わたしたちはそこでかれの手伝《てつだ》いをしてやろうということになった。一座《いちざ》ができて、わたしたち五人の間に利益《りえき》を分けることになった。そのうえカピにもいくらかやることにした。ボブはカピが演芸《えんげい》の合い間に芸《げい》をして見せてくれることを望《のぞ》んでいた。わたしたちはやくそくができて、あくる日決めた時間に来ることを申し合わせた。
わたしが帰ってこのもくろみを父に話すと、かれはカピはこちらで入用だから、あれはやられないと言った。わたしはかれらがまた人の犬をなにか悪事に使うのではないかと疑《うたが》った。わたしの目つきから、父はもうわたしの心中を推察《すいさつ》した。
「ああ、いや、なんでもないことだよ」とかれは言った。「カピはりっぱな番犬だ。あれは馬車のわきへ置《お》かなければならん。きっとおおぜい回りへたかって来るだろうから、品物をかすめられてはならない。おまえたち二人だけで行って、友だちのボブさんと一かせぎやって来るがいい。たぶんおまえのほうは夜おそくまですむまいと思うから、そのときは『大がしの宿屋《やどや》』で待ち合わせることにしよう。あしたはまた先へたって行くのだから」
わたしたちはそのまえの晩《ばん》『大がしの宿屋』で夜を明かした。それは一マイル(約一・六キロ)はなれたさびしい街道《かいどう》にあった。その店はなにか気の許《ゆる》せない顔つきをした夫婦《ふうふ》がやっていた。その店を見つけ
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