の女はわたしの寝台のほうへかけてやって来た。
「ぼくを孤児院《こじいん》へやるの」
「いいえ、ルミぼう、そんなことはないよ」
 かの女はわたしにキッスをして、しっかりとうでにだきしめた。そうするとわたしもうれしくなって、ほおの上のなみだがかわいた。
「じゃあおまえ、ねむってはいなかったのだね」とかの女は優《やさ》しくたずねた。
「ぼく、わざとしたんじゃないから」
「わたしは、おまえをしかっているのではない。じゃあ、あの人の言ったことを聞いたろうねえ」
「ええ、あなたはぼくのおっかあではないんだって……そしてあの人もぼくのとっつぁんではないんだって」
 このあとのことばを、わたしは同じ調子では言わなかった。なぜというと、この婦人《ふじん》がわたしの母親でないことを知ったのは情《なさ》けなかったが、同時にあの男が父親でないことがわかったのは、なんだか得意《とくい》でうれしかった。このわたしの心の中の矛盾《むじゅん》はおのずと声に現《あらわ》れたが、おっかあはそれに気がつかないらしかった。
「まあわたしはおまえにほんとうのことを言わなければならないはずであったけれど、おまえがあまりわたしの子どもになりすぎたものだから、ついほんとうの母親でないとは言いだしにくかったのだよ。おまえ、ジェロームの言ったことをお聞きだったろう。あの人がおまえをある日パリのブルチュイー町の並木通《なみきどお》りで拾って来たのだよ。二月の朝早くのことで、あの人が仕事に出かけようとするとちゅうで、赤んぼうの泣《な》き声《ごえ》を聞いて、おまえをある庭の門口《かどぐち》で拾って来たのだ。あの人はだれか人を呼《よ》ぼうと思って見回しながら、声をかけると、一人の男が木のかげから出て来て、あわててにげ出したそうだよ。おまえ[#「おまえ」は底本では「おえ」]を捨《す》てた男が、だれか拾うか見届《みとど》けていたとみえる。おまえがそのとき、だれか拾ってくれる人が来たと感じたものか、あんまりひどく泣《な》くものだから、ジェロームもそのまま捨てても帰れなかった。それでどうしようかとあの人も困《こま》っていると、ほかの職人《しょくにん》たちも寄《よ》って来て、みんなはおまえを警察《けいさつ》へ届《とど》けることに相談《そうだん》を決めた。おまえはいつまでも泣きやまなかった。かわいそうに寒かったにちがいない。けれど、それから警察へ連《つ》れて行って、暖《あたた》かくしてあげてもまだ泣《な》いていた。それで今度はおなかが減《へ》っているのだろうというので、近所のおかみさんをたのんで乳《ちち》を飲ました。まあ、まったくおなかが減っていたのだよ。
 やっとおなかがいっぱいになると、みんなは炉《ろ》の前へ連れて行って、着物をぬがしてみると、なにしろきれいなうすもも色をした子どもで、りっぱな産着《うぶぎ》にくるまっていた。警部《けいぶ》さんは、こりゃありっぱなうちの子をぬすんで捨《す》てたものだと言って、その着物の細かいこと、子どもの様子などをいちいち書き留《と》めて、いつどういうふうにして拾い上げたかということまで書き入れた。それでだれか世話をする者がなければ、さしずめ孤児院《こじいん》へやらなければなるまいが、こんなりっぱなしっかりした子どもだ、これを育てるのはむずかしくはない。両親もそのうちきっと探《さが》しに来るだろう。探し当てればじゅうぶんのお礼もするだろうから、と署長《しょちょう》さんがお言いなすった。このことばにひかれて、ジェロームはわたしが引き取りましょうと言ったのだよ。ちょうどそのじぶん、わたしは同い年の赤んぼうを持っていたから、二人の子どもを楽に育てることができた。ねえ、そういうわけで、わたしがおまえのおっかあになったのだよ」
「まあ、おっかあ」
「ああ、ああ、それで三月《みつき》目の末《すえ》にわたしは自分の子どもを亡《な》くした。そこでわたしはいよいよおまえがかわいくなって、もう他人の子だなんという気がしなくなりました。でもジェロームは相変《あいか》わらずそれを忘《わす》れないでいて、三年目の末になっても、両親が引き取りに来ないというので、もうおまえを孤児院《こじいん》へやると言って聞かないので困《こま》ったよ。だからなぜわたしがあの人の言うとおりにしなかった、と言われていたのをお聞きだったろう」
「まあ、ぼくを孤児院《こじいん》へなんかやらないでください」とわたしはさけんで、かの女にかじりついた。
「どうぞどうぞおっかあ、後生《ごしょう》だから孤児院へやらないでください」
「いいえ、おまえ、どうしてやるものか、わたしがよくするからね。ジェロームはそんなにいけない人ではないのだよ。あの人はあんまり苦労《くろう》をたくさんして、気むずかしくなっているだけなのだからね。ま
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